みなさん、ヾ(´ω`=´ω`)ノ♡ おはようございました。 3月21日 (月曜日/春分の日/一粒万倍日)になりました。今朝は、6時前に目が覚めてトイレに行きました。
見ていた夢はトイレを探している夢で、なぜか!?会社の重役室の個室トイレに入ってしまい(普通のトイレではなくシックな木目調の引き戸を開けて落ち着きのあるいいね♡ボタンを押したくなるようなトイレに平然と座っているところへ)虎のような会長がやってきて思わずドアが開きあってはならないご対面Σ(゚Д゚)!あっつ!!(うんこ出たwww/朝から、すみません)
目が覚めて、思わずおしりを触って夢を見ていたことに気づくわけですが・・冷や汗をかいた(夢でよかった/苦笑)
若い時に勤めていた会社の会長は天上界の人といった存在で当時の人脈には、大臣、首相、といった国会議員もいたので怖いそんざいでもありました。
社長は会長の弟でしたが、社長は僕をかわいがってくれたいい人♡でしたが、従業員数46名から170人に増えて、大阪市内へ8階建ての本社ビルを建てて2年後に僕はその会社を退社しました。
人生には、人それぞれに紆余曲折があって、出会いも、別れにも、それぞれ意味があり、偶然のようで、偶然などは一つもなく起きていることや起きたことはすべて「必然」なんです!
わたしたちは偶然のように思えるかもしれないけれども・・「必然の中で生きているんです。」(偶然なんかじゃなく・・奇蹟の中をキセキのような確率で出会いと別れを繰り返しながら人と人はすれ違い、肩を寄せ合い、時には息を合わせて、触れ合いながら、ぶつかり合いながら、反発しあい、重なり合い、溶け合いながら、)さざ波のような時もあれば、岩に当たって砕け散る波のように・・人間も、目には見えない物質同士の(意識/エネルギー/思考)によって、命を燃やしながら生きて、生かされている。
自分が見ているものと 感じていることがすべてです。
今日の日めくりのカレンダーに書かれてあることわざは「明日ありと思う心の仇桜」でした。
明日ありと思う心の仇桜
明日ありと思う心の仇桜とは、明日はどうなるかわからないという、世の中や人生の無常を説いたことば。明日も咲いているだろうと思っていた桜も、夜のうちに嵐が吹いて散ってしまうかもしれないという意味から。「仇桜」とは散りやすい桜の花のことで、はかないもののたとえ。
『親鸞上人絵詞伝』に「明日ありと思ふ心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは(明日もまだ桜は咲いていると思っているが、夜更けに嵐がきて桜の花を散らすことがないといえようか、そんなことはない)」とある。(故事ことわざ辞典より)
今日も明るく!楽しく!元気よく!笑顔を忘れずに! 行って来ま~~す!(* ^-^)ノ♪