令和5年2月27日(月)

 

おはようございます! ご訪問 ありがとうございます。

 

 今から150年ほど前の幕末、見慣れぬ4隻の巨大な黒い軍艦が、江戸湾(現東京湾)の浦賀沖に姿を現しました。しかも、うち2隻はもくもくと煙を吐く蒸気船です。

当時、オランダを除く西欧の国々と国交を持たず、いわゆる「鎖国」政策をとって きたわが国は大変驚き、退去するように求めますが、司令長官として乗り込んでき たアメリカのペリー提督はこの求めに応ぜず、アメリカ大統領の国書を携えて、わ が国に「開国」を求めてきたのです。

 

          

 

 ペリーが艦隊を率いて初めて東京湾の入り口である浦賀沖に来航したのは1853年 7月8日でした。2回目の来航は54年2月13日で、艦隊は横浜・小柴村の沖合に錨を 下ろしました。横浜村で3月8日から日米交渉が始まり、3月31日に日米和親条約が 結ばれました。

この後、ペリー艦隊が後に開港場になる下田に向けて東京湾を離れたのは4月14日であったから、2カ月間、“黒船”は間近に眺められる位置にありました。

 

 初めて見る「黒船」は、煙を噴き上げるその威容は蒸気船など見たこともない 人々にとって脅威そのものでした。ですが、やがて瓦版を通じてペリー一行の様子 が江戸庶民の間に伝えられると好奇心の対象となっていきました。

 

  

 

 ペリー艦隊の船は9隻で、乗組員は2000人を超えました。彼らはたびたび上陸し、人々は乗組員が持参した西洋の文物に驚きの声を上げました。

 来航した艦隊が初めて浦賀沖に停泊した時、周辺には大勢が集まり、「黒船見物 ブーム」が巻き起こりました。やって来た人々はその姿を記したが、中でも廻船業 をなりわいとした人物が、「海に浮かぶ城を眺めているようである」と評し、水車 型の推進器(外輪)や搭載された大砲についても日記に詳しく書き留めています。

 ペリー艦隊に対して、当初は恐怖心を覚えたようだ。例えば、ある僧侶の1854年 2月の日記には、ペリーの側近であった参謀長のアダムス中佐が数人の兵士を率いて 初めて横浜村に上陸した時の様子が、「交渉が決裂した時に戦争が始まるのを恐れ た村民が家財道具を海から離れた場所に疎開させた」と記されています。

しかし、停泊中に日米交渉が繰り返される過程で戦争にはならないことを敏感に感 じ取り、恐怖心は次第に薄れて、むしろ強い好奇心を持って艦隊乗組員に接するよ うになっていきました。僧侶は4月に艦隊が東京湾から退去する時、「村民が乗組員 との別れを惜しむようにまでなった」と記しています。 

 

大航海時代

〈 日本は 〉

 16世紀の世界を一変させた大航海時代に、西欧列強に対し、うかつに手を出すと 痛い目にあうことを見せつけて植民地化を免れた「ジパング」こと日本は、やがて 港のほとんどをみずから閉ざします。

豊臣政権を倒して日本の支配者となった徳川家康が開いた江戸幕府が、ごく一部の 国を除いて出入りを禁じる鎖国政策を採ったからです。

 そして日本は、250年にもおよぶ泰平の眠りにつきます。一国の平和な状態がこ れほど長く続いたことは、世界にもほとんど例がありません。内政が安定していた のもさることながら、外からの侵攻がなかったことがその大きな要因でしょう!  

 化学反応や熟成、発酵には長く安定した時間が必要です。その時間を与えられた 江戸時代の日本では、さまざまなものが育ちました。それらを総称して「文化」と いうなら、江戸時代の日本の文化は世界でもかなり高い水準にあったことが、近年 の研究でわかってきています。

 

〈 世界 〉

 16世紀の大航海時代は、スペインが没落し、かわって英国が7つの海を支配する といわれた巨大な海洋帝国を築いていました。世界の植民地から英国が収奪した富は、莫大な量にのぼりました。大英博物館やルーブル美術館の展示品を見れば、い かに世界から多くの宝物が集まったかがわかります。

エジプトなどは現在、持ち去られた出土品の返還を求める交渉をしています。

富が蓄積されると、国内では社会や経済が発展し、人口が増え、物品の需要が増大 します。

 

          

 

 18世紀の英国ではとくに、インドの綿製品の人気が高まりました。

そこで需要に追いつくため生産力を上げようと、それまでの手織りの紡績機に代わって、水力を利用した機械紡績機が開発されました。

それでも足りず、カートライトが蒸気で駆動する機械紡績機を開発します。そして1769年、ワットが従来の蒸気式機械から復水器(コンデンサー)を独立させることで エネルギー効率を飛躍的に向上させた、本格的な蒸気機関を発明します。

ワット式蒸気機関は燃料を75%も節約することができました。 

 蒸気機関は鉱山の排水ポンプに使われ、さらに汽車にも使用されて、生産や移動 にかかる負担を劇的に減らしました。その結果、企業の収益は急伸長し、各種の大 工場が建設され、たくさんの労働者が働き、労働者たちとその家族が住む家が立ち 並び、英国各地に新しい工業都市が生まれました。

こうして世界で初めて起こった蒸気機関による社会変革が「産業革命」ですが、そ の原動力は、海洋支配によって得た多くの植民地からの富だったのです。

 

  英国で起こった革命の波は、やがて当時の先進国だったフランス、ドイツ、米国 にもおよびます。同様に工業を発展させたこれらの国も、安い原料を輸入し、大量 生産した製品を輸出できる貿易の相手を求めて、次々と海に出ていきました。

それは産業革命による第二の大航海時代の到来ともいえました。しかしその貿易の 実態は、軍艦と大砲による強力な軍事力を背景に、アフリカ、アジア、アラブ、南 米諸国などの技術力が未発達な国々を服従させるもので、「砲艦外交」とも呼ばれ ています。

  19世紀になると、欧米の列強各国の矛先は東南アジアに向かいます。

1842年には、英国が清(当時の中国)との阿片戦争に勝利して、租借地を獲得しました。

インド、ビルマ(現ミャンマー)、シャム、タイも英国領または支配地域となり、イ ンドシナ地域はフランス領、フィリピンは米国領、清は約20%が英国、フランス、 ロシア、ドイツの領地あるいは支配地域となりました。

日本を除くアジア諸国のほとんどが支配下におかれていったのです。

 

 

ペリーも「驚愕」した日本人の技術力

 こうした世界の動きから隔絶されたかのような長い眠りについていた日本に、

ついにその波が到達したのは、ペリー率いるアメリカの艦船が、来航した1853年の ことでした。

日本の近代化はこのとき始まったといってもよいでしょう。 

その後、日米和親条約が結ばれ、日本は200年以上も閉ざしていた港を開かざるを えませんでした。 

 

 この初めての日米両国の接触で驚いたのは日本人ばかりではなかったようです。

 

 ペリーの日本来航時のエピソードをまとめた『日本遠征関連逸話集』(在NY日本 国総領事館のウェブサイト)によれば、ペリーは寺子屋や藩校などで学ぶ日本人の教 育水準の高さや、職人の腕のよさ、礼節を尊ぶ国民性に感嘆しています。

そして中国や他の東洋諸国では女性が夫の従属物のように扱われ無知の中に放置さ れているのに対し、日本女性は夫の伴侶であり、教育や品位があるとし、既婚女性 のお歯黒は奇異ではあるが一夫多妻制もない日本は、道徳や規範において東洋諸国 のなかで異質であると、好感を表しています。

 

 

 

 とくにペリーは日本人が潜在的にもっている技術力の高さを見いだし、こう述べ ています。 

 「日本人は非常な精巧さと緻密さを示している。そして彼等の道具の粗末さ、機 械に対する知識の不完全さを考慮するとき、彼等の手工業上の技術の完全なことは すばらしいもののようである。日本の手工業者は世界におけるいかなる手工業者に も劣らず熟練して精通しており、国民の発明力をもっと自由に発達させるならば、 日本人は最も成功している工業国民にいつまでも劣ってはいないことだろう。他の 国民の物質的進歩の成果を学ぶ彼等の好奇心、それらを自らの使用にあてる敏速さ によって、日本国民と他国民との交通から孤立させている政府の排外政策の程度が 緩和されるならば、彼等はまもなく最も発達した国々の水準まで達するだろう。

日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう」と。

 

 この言葉がやがて、現実のものとなっていったのです。 

 

それではまた!

自称 アルピニスト より