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善徳女王(ソンドククワン) 徳曼(トンマン)生年不詳~647年第27代(在位632年~647年)
父、真平(チョンピョン)王
母、摩耶(マヤ)王妃
632年真平(チョンピョン)王の死去、善徳(ソンドク)女王が即位
新羅初の女王
父母共に王族の聖骨がいなくなったため、そして、徳曼(トンマン)には、聡明で智恵と教養、呪術者的性格を持っていたため王位を継いだ。
仏教の保護
慈蔵法師を唐に送り、経典を持ち帰らせたり、芩皇寺などを建立
文化に関心を持つ
東洋最古の天文台、瞻星臺(チョムソンデ)築造
唐の国子監に王族の若者を多く派遣し、唐の文化を新羅に入れて文化発展に貢献
636年百済が独山城を襲撃しようと潜んでいた所、角干(一等官)の閼川(アルチョン)を派遣して殲滅、閼川を大将軍に任命
638年高句麗が七重城に攻め入った時、閼川が高句麗兵を撃退
642年百済に西部40余城陥落、高句麗と百済とが連合して、党項城を奪取、新羅の唐への朝貢の経路が絶たれる。
百済によって、大耶城も陥落され、大耶城奪回の為、対百済戦の救援軍を求め、王族の金春秋が高句麗に赴いたが、人質にされ、援軍はこなかった。
643年唐に使者を送って、高句麗・百済を討つ救援軍を求めたが、唐からは援軍を派遣する代わりに女王を廃して、唐の王室から、新王を立てることを迫られた。
この唐の姿勢に対して、新羅国内でも、新唐派と反唐派で対立が起こる。
647年、女王自らが任命した、上大等 毗曇らが、女王廃位を求め内乱を起こす。
上大等に代表される中央貴族に対して、金庾信ら地方勢力有力者が、女王を支援して、乱の収拾に当たったが、女王は陣中に没する。ここで、毗曇(ピダム)の乱が出てくるのですね‼︎
天明公女(チョンミョン)生没年不明
劇中では、天明(チョンミョン)が長女、徳曼(トンマン)次女となっていたが、双子ではないし、上下は定かではない。
歴史書では、毗曇(ピダム)は、この記載しかないらしい![ビックリマーク](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/039.gif)
そこに、かっこいいナムギルさんを配役してくださりありがとうございます![ニコニコ](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/139.gif)
最初は柒宿(チルスク)役の話が来たとか~![えっ](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/147.gif)
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では、ここまでお付き合いありがとうございます‼︎
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