私が好きな梶芽衣子さんについて少し話そうと思う。今風に言えば“推し活”という括りになるのだろうか。
彼女の演技や歌には、クールで洒脱、怨念と情念、ワイルドでありながらフォーマルという、本来なら両立しづらいものを同時に纏った、単なる“個性”では処理できない魅力がある。
まだ何もかもを言語化し、整理し、説明し尽くす以前の昭和を通過してきた人間特有の熱がある。
怒りも、孤独も、色気も、もっと身体に近い場所で燃えていた時代だ。
現代のマーケティング的な「自己プロデュース」とは対極にある、凄絶なまでの「引き算の美学」である。
だから視線一つ、煙草の持ち方一つに妙な説得力が宿る。演技というより、生き方の癖や哲学そのものが、表情や仕草から滲み出ているように見える。
面白いのは、その昭和的ストイックさが令和の感覚から見ても少しも古臭くならないことだ。むしろ今の時代のほうが、ああいう“覚悟のある様式美”に飢えている気さえする。
情報は増え、言葉は洗練され、誰もが自分を表現できるようになった。傷つかないように「最適化」されていく令和の街並み。 その快適さのなかで、私たちは時折、どうしようもない渇きを覚える。
そんな時代に、梶芽衣子の佇まいは異様に鮮烈である。多くを語らない。媚びない。感情を安売りしない。それなのに、沈黙の奥だけが妙に雄弁なのだ。
最近、昭和歌謡や古い日本映画を見返していると、妙に安心する瞬間がある。たぶんあれは単なる懐古ではない。
人間がまだ完全に最適化される前の“ノイズ”を確認している感覚に近い。粗削りで不器用な時代だったからこそ、人間の気迫や執念のようなものが、今よりずっと剥き出しだった気はする。
少し危うく、少し物憂げで、少し面倒臭い。
でも、そのくらいのほうが、人間は格好良かったのかもしれない。
……こんなことを申し上げる私も、やっぱり古い人間でござんしょうかね。