娘の付き合いで図書館へ行った。


せっかくなので何か借りようと、貧乏性的な性分の私は館内をぶらぶら歩き、書架を物色していた。すると、中上健次『岬』が目に入った。

他の作品を検索すると、続編の『枯木灘』も書庫にあるらしい。

そういえば若い頃、一度読んだことがある。正直に言えば、その頃はあまりよく分からなかった。


血縁、土地、暴力、性、差別。


どれも息苦しく、救いがなく、登場人物は誰ひとりとして共感しやすくない。当時の私には、文学を読むというより、濃すぎる人間関係を延々と見せつけられているような印象だった。


だが、この年齢になった今ならどうだろう。

私自身の感性がどれほどアップデートされているのか、少し確かめてみたくなった。


中上健次が描いていたのは、暗い世界などではなく、「人間そのもの」だったのではないか。今はそんな予感がしている。


ひるがえって、現代の私たちはどうだろう。

人間関係はスマートに整理され、距離感は洗練され、不快なものは見えない場所へ片付けられる。その恩恵は計り知れない。だが同時に、人間からある種の「濃度」のようなものが失われた気もする。


中上文学の登場人物たちは、とにかく面倒臭い。

執着し、嫉妬し、欲望に振り回される。血縁に縛られ、土地に縛られ、過去に縛られる。

令和的な価値観から見れば、あまりに不自由で、グロテスクですらある。


それでも彼らは生きる。


この「それでも」にこそ、中上文学の核心がある。

自ら選んだわけではない血や土地や運命を背負い、それでも生き続ける。その姿には、理屈では説明できない執念が宿っている。不自由さの中でこそ、その命を息苦しいほど全力に、人間は剥き出しに生きる。運命のノイズの中に、人間の明瞭な輪郭が見えてくる。


便利で清潔になった時代に暮らしながら、ときどきそんな濃すぎる人間たちに会いに行くのも悪くない。

――もちろん、そんな体験は本の中だけで十分なのだが。