90年代末の音楽には、まだアナログの残滓が濃く残っていたと思う。
あの独特な空気感を解像度高く言語化することは難しいのだが、ジジイ特有の思い出補正は差し引くとしても、音に鼓動や呼吸のような生物的な揺らぎがあった。ような気がする。
Spotifyのプレイリストで、そうした感覚を呼び戻す音が不意に再生されることがある。
Zoot Suit Riotもその一つで、当時これほど“かっこいいスタイルの音楽”があるのかと衝撃を受け、ダサい高校生だった私は聴くたびに心を動かされていた。
私はフュージョンから演歌、ブルースに至るまで、その都度どこかで衝撃を受けてしまう節操のない感性と言われれば否定はできないのだが、たぶん問題はジャンルではなく、スタイルが立ち上がる瞬間そのものにだけ過敏に反応してしまう癖のほうにあると自己分析している。
あらためてこの曲に触れると、単なるスウィング復古ではなく、過去の文化を引用しながら90年代末の空虚さを“踊り”として成立させた装置として立ち上がってくる。
純粋なスウィングというより、崩れかけた様式を過剰に装飾することで成立する祝祭性が、聴く者の心を躍らせる。
ネオン的レトロ趣味や退廃的終末感の系譜にあり、都市的退廃や人工的虚無と接続しながら、「世界はすでに十分壊れている」という認識の上で、それでもスタイルだけは手放さない感覚が貫かれている。
そこにはニヒリズムに接近しながらも完全には沈み切らない、時代を冷笑するサウンドが浮遊している。
結局のところ、“かっこいいもの”は時間を超えてもかっこいいままで残る。理屈より先に身体が反応してしまう領域がある。
そういう感覚は歳をとっても自分の中に残していきたいと思う。
娘の入学式にZoot Suitを着込んでソフト帽を被り、軽くステップでも踏みながら参列する光景を一瞬想像してみる。
まぁ、良き家庭人として、その逸脱はあくまで脳内に留めておくしかないのだが。