若さとはこんな淋しい春なのか
 ―― 住宅顕信


若さと、春。

この句の「春」は、四季の季節のことではなく、青春そのもののことだと私は思っている。
可能性や希望に輝く季節だと言われる。たしかにそうだろう。
だが、可能性というのは、案外やっかいなものでもある。


哲学者キルケゴールは、人間を「可能性にめまいを起こす存在」と呼んだ。


未来が閉ざされていることは苦しい。
しかし、未来が開かれすぎていることもまた、苦しい。
何者にでもなれるということは、まだ何者でもないということだからだ。


住宅顕信は、そのことを理屈ではなく感覚として掴んでいたように思う。
だからこそ、「若さとはこんな眩しい春なのか」とは書かなかった。
そこにあるのは青春礼賛ではなく、青春の実感だ。あの年代特有の孤独感や不安感だ。むしろ、自分が何者なのか分からないぶんだけ、その闇は深い。


私たちがかつて迷い込んだあの「淋しい季節」は、今も形を変えて、現代の若者たちの中にも息づいているのだ。

SNSを開けば、世界中の誰かと繋がることができる。

誰かの成功も、誰かの幸福も、数秒で目の前に現れる。
便利な時代だと思う。その恩恵も大きい。
ただ、その一方で、人は以前より「自分の輪郭」を見失いやすくなった気もする。
比較する対象が増えれば増えるほど、自分という存在は曖昧になる。
誰とでも繋がれる時代なのに、孤独だけは消えない。
むしろ、静かに深くなっているようにも見える。


だから、住宅顕信の句は古びない。
昭和の俳人が残したわずか十七音なのに、妙に令和の空気とも繋がっている。

人は人生のどこかで、必ずその淋しさを通り過ぎる。
そして大人になってから振り返り、ようやくその季節の名前を知る。
満ち足りていたか、白けていたか。そんなことに関係なく、

「ああ、あれが春だったのだ」と。


病や死を見つめ続けた住宅顕信の作品でありながら、この句は奇妙なほど若々しい。
逆説的に、生の本質を見抜いていたようにも思える。
人生の残り時間を知った人間が見た春と、人生がこれから始まる人間が見る春は、案外よく似ているのかもしれない。


若さとはこんな淋しい春なのか。


私の中でその問いは、まだ答えが出そうもない。