突然の訃報 | 生きているあいだにやりたい100のリスト

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旅の記録を気楽にのんびり更新します。

10連休。このときを待っていた。

もう少しで10連休だから頑張ろうと自分を鼓舞してきた。

そして10連休。

自宅であれこれ家のことをする日々はとても平和。

10連休と言わず3か月連休とかにしてもらってもまったく問題ない。

若い美容師さんはそんなに休みがあってもなにしたらいいかわからないという。

若いとそうなのだろうか。

 

10連休半ばにして訃報。

いとこが突然死した。ここ8年ほどは会ってない。

前回だって身内の葬儀。

子供のころは夏休みや正月に一緒に過ごしたりしたけれど、

大人になってからは身内の葬儀以外では会うこともなかった。

まだ若いのに。可哀想に。叔母さんが可哀そう。残された人はずっとかなしみを背負って生きていくから。

しかも子供が先に逝くなんて、彼女の悲しみは計り知れない。

悲しみは少しずつ薄まっていくけれど何年経っても決して消えないから。

 

訃報が届いてからずっと憂鬱。もはや10連休どころじゃない。

あー、人は死ぬのだったな、とまた改めて思う。

前回の親族の葬儀は1年前だったっけ。あのときもとても憂鬱だった。

葬儀に行きたくない。葬儀は嫌い。あんな憂鬱な場所なんて他にない。

あれは死者のためにやるのではなく、残された人たちが心の整理をするためにやるのだと思う。

私は自分が死んだら葬儀なんてしてもらいたくないし、ずっと会ってない親族にわざわざきてもらって

「かわいそうに」だなんて思ってほしくない。

 

「今後一切葬儀には参列しません」と親族に宣言したいけれど、父親が生きている間は許されそうもない。

彼の常識の中では私の意見なんてたわごとだと一蹴されておしまい。

わたしは自立して生活しているけれど、結局家族のしがらみの中で生きている。

 

本当に参列したいと思う人の葬儀には自分の意志でお別れを言いに行く。

義務感で葬儀に行くなんて死者にも失礼だと思うのだけれど。だったら心の中で静かに喪に服してほしい。

しかしそんなたわごとは自立した常識ある大人とみなされている(勝手に周りがみなしている)私には決して許されない。

 

あー、憂鬱。もう何も手につかない。

心の中で彼女の死を悼む。それだけでいいじゃない。