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「もう会えないという事」

去る2020年5月10日親父が天国に旅立った。僕はまだ「親を亡くす」という感覚をまだ受け入れられずにいるのだろうか?受け入れた上での今の僕なのか?寂しくて懐かしくて愛おしくて。もう二度と会えないのかと思うと胸がキューッとなる。 子供の頃から何度も何度も聞いた親父の口癖であり、遺言でもある言葉。

 

「悲しい時も、辛い時も素晴らしい心模様で歌いなさい。」これはきっと歌以外の全ての事にもそういう風にして生きていきなさい。と言ってくれたのではないかと勝手に解釈しています。だから親父が旅立ったその日から寂しさや悲しさを超える様な気持ちで一生懸命に楽しく、熱く本気で色んな事に取り組んでいます。やせ我慢でもウソでも無く、僕は心から楽しい気持ちで情熱を持って全ての事に取り組む様にしています。なので「本当は悲しいのではないかな?」なんて思わないで下さいね。一緒に熱く楽しくこれまで通りやっていきましょう。それが一番の望みです。

 

子供から親を見ての範囲ではあるが親父は良い事も悪い事も沢山してきた様に思う。好きな様に生きてきた方だと思う。家族に看取られて幸せな最期だったのではないだろうか?そう思ってくれていたらいいなと思います。ゴツくて迫力のあった親父も最期はすっかり小さくなってしまっていたが、見れば見る程自分との血の繋がりを感じさせる顔立ちだったなぁと思うし、最近は声もよく似てきたなぁとも思う。僕は親父の血を受け継いでいるのだ。 

 

 

親父の生きてきた証、それは「一人の男」として自分の師であった事。母ちゃんの夫であった事。「歌とギター 」を愛した人。

 

 

そしてメジャーデビューのチャンスを辞退し、高島屋の洋服売り場で定年まで働き、僕達家族を養い育ててくれた事。最初から最期まで自分の「父」であった事。親父を亡くした今、その大きな大きな寂しさの分だけ息子として跡を継いで行きたいという気持ちで胸が溢れている。親父の遺した言葉をしっかりと胸に抱いて僕は生きていこうと思っています。

 

ろくでもない事も沢山してきた父ですが一人の男として、息子としてその生涯を振り返り尊敬しています。

 

もし僕に今息子が居たなら、そしてその息子が「父の跡を継ぎたい」「あなたの様に生きたい」と言ってくれたら僕はきっととても嬉しいのだろうなと思った。もし本当に今息子が居たとしたら、実際は僕の生き方ややって来た事を押し付けたり無理やり同じ事をさせたりはしないかも知れない。「お前が望む生き方をお前が自分で選んで生きなさい。」と思うのだろうなとも思う。だけど「跡を継ぎたい」「あんたと同じ様な生き方をしたい」なんて言われたら一人の人間として最愛の家族にそんな事を言われたらやっぱり嬉しいのだろうなとも思うので少しは自分がやってきた事の何か一つ二つは勧めてみるかもしれないなと今は思います。

 

きっと親父も同じ様に僕の自由を望み、自分のやりたい事や自分の思う幸せを考えてそれを目指して生きていきなさいと思ってくれていたのだとは思うのだけれど、今僕は親父の良い所や尊敬している所、影響を受けているところはなるべく受け継ぎたいと思っています。本当に今はそんな気持ちです。僕は寂しさを埋めたいからそんな風に考えているのだろうか?それとも純粋な尊敬や継承の想いなのか。

 

理由はよく分からないのだが今は無性にそんな気持ちです。 親父の棺には「別冊カドカワ」の10-FEET特集の号を一緒に入れてやりました。生前親父はデイケアや色んな所でこの本を自慢気に宣伝し、10-FEETを知ってもらうべく、息子自慢も絡めてよく周りの人に勧め、何人もの人にその本を押し売りの様に無理矢理貸していました。

 

親父はデイケアの方々や同じデイケア仲間の人達にわがままを言ったり悪態をついたりして随分皆を困らせたらしい。脳の病気の後遺症による脳障害が原因とは言え、随分酷い事を沢山言って迷惑をかけてしまったみたいだ。その内容を知った僕は土下座して謝りたいぐらいだ。ウチの親父を寛大な心で許し、お世話をしてくれた皆さんに心からお礼を言いたいです。本当にありがとうございました。

話を戻しますが親父のこの「別冊カドカワ10-FEET号自慢」は息子として純粋に嬉しかった。あれ程バンドに反対していた親父が「この本はほんまにええ本や。10-FEETの事がほんまによう分かるええ本や。せやから貸した相手はいつもみんな喜ばはんねん。」といつも自慢げに言っていたのだ。無理矢理貸して無理矢理喜びのコメントを引き出していたに違いないが、それでもバンド禁止令を出していた親父がバンドマンとしての自分を評価し、それを色んな人に自慢しているという事は、親父の背中を追いかけて来たこの私にとっての自慢でもあるのです。

 

(親父の部屋の机。生前の最後の状態。)

 

空手に洋服にバンド、歌、ギター。気がつけば親父が本気でやってきた事の跡を辿ってきた僕だが、姉もまた、かつては洋服の世界(先日倒産してしまったレナウン)で働き、そして今は高島屋(たまに大丸)の地下食品売り場でも働いている。蓋を開けてみれば偶然か必然か職種も職場も親父の子供達は見事にその跡を継いでいる形になっている。

 

(若き日の父=左  鴨川にて)

 

僕は大人になってからの昨今も親父に教え込まれた空手が懐かしくなり、たまに地元京都(山科真門ジム)や東京のキックボクシングジム(mobstyles)に行ったりして汗を流している。洋服に関しても販売こそしていないが、ここ数年間アジアの生地卸の市場や縫製工場に足を運んで一から洋服を作ったり、親父のやってきた事を一通り学んでみたいと思い自分なりに基礎から勉強、研究を重ねて親父の生涯を辿る様に噛み締めていた。学べば学ぶ程に親父は凄かったんだなと思う。そんなこんなで2年程前に初めて布から作った服が完成し、親父を驚かせてやろうと色々計画をしていたが、親父が病床に伏してしまった事や色んな事が重なって叶わなかった。せめて棺に入れて一緒に天国に送ってやろうと思ったのがこれもまた諸事情により棺に入れてやる事が出来なかった。

 

先日、納骨前の四十九日のうちにと仏前に持っていってやっと見せてやる事が出来た。

葬儀だなんだでしばらくドタバタして親父の事をじっくり思い出したりする時間もあまり無かったので

この日は仏前でしばらく親父と心の中で話をした。

 

「親父がずっと情熱を燃やして取り組んできた事に息子として触れたくなった。」と言って見せたらどんなリアクションをしただろうか?生きていて会話も出来る状態だったなら褒めてくれただろうか。いつも通りダメ出しでもしただろうか。親父のパターンだと「お遊び」だの「一年生」だのなんの一頻り駄目出しをし、その後は「まぁ可愛いやっちゃな」と少しバカにする様に照れ隠しをするといった所だろう。あまり褒めるタイプでは無かったからな。

 

今思えば親父が言語障害、脳障害を起こしてからは普通の会話は成立しなくなって、親父は3つの言葉しかほぼ話せなくなったのだが、その2つの言葉というのが「たくまや!」と「カッコええやんけ!」と「ありがとう!」だった。たくさん褒めてやらねばと思っていてくれたのかな。生涯分の「ありがとう」を伝えなくちゃと思ったのかな。家族の誰が何を話しかけてもこの3つしか言えなくなっていた。言葉らしい言葉を発していたのはこの3つが最後だった。その後は前回のブログでお伝えした通りだ。

 

 

親父は他にもスキーと硬式テニスとゴルフもやっていた。スキーは子供の頃から厳しく教えられてたのでお陰で一通りは出来る様にして貰った。あとはテニスもこれまた中学の時に軟式テニス部に居たので少しは辿ったと思っている。あとはゴルフはてんで才能が無いけれどそのうち少しやってみようかな。せっかくだし全部の跡を継いでみよう。

 

(学生時代の父=京都商業高等学校)

 

話は少し変わるが、身近な仲間。僕の友達で居酒屋、飲食店を数店経営しているドクター長谷川という男が居る。

 

彼も子を持つ父親なのだが、4男2女と子供達が沢山居て、一番上の子はもうすぐ高校生。沢山の可愛い子達を立派に育てるビッグダディだ。

 

ドクターは子供の頃、若い頃は野球が好きだったけどいろいろあって吹奏楽やサッカーをしていたらしい。そして今は京都は南丹市に住み、子供用の手作り野球設備、バッティングやピッチングの即席練習場などを作って教えている様だ。このドクター長谷川という男はいつもはとぼけていて、ハチャメチャだが、心の奥にはいつも熱いモノを持っている。仲間や後輩に厳しめのダメ出しをする事もあるが、根っこに愛があるので全然嫌われない。僕もそういう男になりたかったのでどうかコツの伝授を乞いたいものだ。

 

そんなドクターが自分の大好きだった野球を子供達に情熱を持って教えている姿。又それを受けて野球を愛し、野球少年、球児へと成長してきた子供達を見ていて、子が親の背中を追う姿、そしてそういった親子の関係が素敵だなと改めて思ったのです。僕はそんなシーンも見てきてか、より一層親父の跡を継ぐ事の素敵さ、素晴らしさが自分の中で増していった。バンドを続けていて本当に良かったなと思う。

 

(両親揃って一緒に撮れた最後の写真)

 

親父が亡くなってしまった事が受け入れられない大きな寂しさはあるけれど、親父の遺言通り毎日を楽しく、全力で笑い、そして全力で歌い、叫んでギターを弾く。全力で生きていく。そうする事によって寂しさを乗り越えていく事は親父が一番望んでいる形なのではないだろうかと思うのです。

 

 

親父が見ているであろう空からそんな決心や勇気を勝手に感じとりながら今日も笑顔で全力で生きようと思っています。

 

僕は心から元気です。

 

みんなも元気に過ごして下さい。

 

今日も明日も沢山笑おうね。

 

今世界はいろいろあるけれどもう少しの辛抱です。

 

(ちょける若き日の父)

 

(母ちゃんと父ちゃん)

 

(少年の頃の父)

 

 

追伸

ブログ内でも書いていました京都木屋町はポンの看板男ドクター長谷川の経営するお店、ポン、コンクリートバー、ゴールデン酒場、オリオン食堂、がコロナウィルス感染拡大防止などの影響により、いずれの店舗も依然として先が見えず、苦しい状況が続いています。先日このドクター長谷川の店舗を救う為にクラウドファンディングが立ち上がりました。僕自身このポングループの各店舗で沢山の出会いがあり、気づきや閃きに結びつく様な経験や思い出を数えきれないぐらい貰ってきました。京都大作戦の打ち上げの場としても協力して貰って来ましたし、京都大作戦では店舗を出店して貰ったり、ドクター長谷川本人には毎年10-FEETと一緒にトランペットやサックスで演奏して貰っています。音源「ライオン」でトランペット「child」でソプラノサックスを吹いているのもこのドクター長谷川です。閉店、倒産せぬ様なんとか乗り越えて欲しいと思い、僕も応援しています。楽しいリターンも用意しているみたいなので、余力のある範囲内で支援の程よろしくお願いします。

 

https://camp-fire.jp/projects/view/269511