『大切な人にとってあなたも大切な人』
今回のブログですが、過去のブログでも何度か親父について書いた事がありますが、この一年程親父が体調を崩して闘病していて、余命はあと一ヶ月と宣告されたという内容である事、その親父との思い出、親父の生い立ちや、親父と僕とのエピソード、僕の音楽人生と親父との繋がりなど、そういった内容のブログとなっている事を先に伝えておきます。そして僕も家族も親父を最後まで支える覚悟がもうかなり前から出来ている事。その上で家族みんなで前向きに、なるべく明るく最後まで親父を支えようとしていて、決して暗い心境になっていない事を最初にお伝えしておきます。僕は元気です。興味ある人は読んでみて下さい。
親父は脳の血管が弱り脳出血を繰り返し、その頻度が上がっていくという症状が出て半年程前から入院生活が続いています。四ヶ月程前に三度目の出血があって言語障害が出て、最近では言葉は話せなくなってしまい、僕達家族の言葉にも殆ど反応できなくなってしまいました。主治医にはここから良くなる事は無いと知らされた後、CTの写真で詳しく説明を受けながら理解するまで丁寧に話して貰いました。三ヶ月程前に「覚悟をしておいて下さい」と言う事も伝えられ、その後転院した病院で余命二ヶ月と告げられてから、最近はさらに反応が薄くなり、言葉は全く話せず、たまに目が少し動くぐらいだ。ただ、最近は苦しそうに顔を歪める事も少なく穏やかに過ごせている様に見える。それだけが救いで医師や看護師の皆さんにありがとうを言いたい気持ちでいっぱいです。
コロナウィルスの感染拡大防止の為、時期によっては面会謝絶だったりとかなりの制限はありますが、時折家族の誰かが病院に行っては明るく笑顔で元気が出る様に、暗い気持ちにならない様に励ましていました。なるべく長く穏やかで居て欲しい。
(数年前肝障害で倒れた時、元を辿ればこの肝疾患から意識障害が出る様になった。どんな時でも家族は常に明るくする。そうすれば明るくなる。補足になりますがもし同じ方いらっしゃいましたら肝疾患による意識障害の間は時折家族に酷いことを言ったりする事もありますが意識障害が原因で心にも無い事ですのでなるべく許してあげて下さいね。肝性意識障害から回復すると以前の状態に戻ります。)
たとえ余命が宣告されようとも、たとえ「助かる事は無い」と告げられても家族が信じて励まし続ける事。なるべく明るく。それが親父にとって一番の心の支えになる事は間違い無い。
信じる事。
現実、事実はさて置き、ただただ信じて愛して励ます事だ。
自分がもし父の立場だったら。
そうしてもらえるときっと嬉しい。
そして安心する。勇気が出る。たとえ死ぬと解っていたとしても。
ならば嬉しい事をしよう。なるべく沢山。
親父の若い頃のエピソードを少し話します。
親父は学生時代は評判のワルで古風な言い方をするといわゆる昭和の「番長」だった様だ。空手の有段者でケンカが無双だった親父は木刀やチェーンを持った不良達としょっちゅうケンカしていたらしい。まるで昔の不良漫画だ。拳の骨は見事に砕けてた。昔の空手家は早めに自ら拳の骨を砕いていたらしい。自分も幼少の頃から空手道場に通わされ、稽古があって泣いて帰った日も家に帰ったら今度は親父の稽古が待っていた。泣いてもドラゴンボール並みにドッカンドッカンぶっ飛ばされたもんだ。心底怖かった。だけど怖いのは叱る時や稽古の時だけで、それ以外はバカな事を言っては母や姉や僕をよく笑わせてくれた。寝る前はギター弾きながら歌ってくれたり絵本を読んでくれたりして、強くて面白くてカッコ良くて優しい父さんだった。叱る時の怖さ以上に愛を感じていたので姉も僕も親父の事が大好きだった。
(名古屋大会にて不戦勝で胸を撫で下ろす思いの僕)
優しくて面白いけど怒るとめっちゃ怖い。
そして歌がとても美味い。
家族でよくカラオケに行っていたのでその都度歌は少しは教えてくれた。
だけどギターは一度も教えてくれなかった。
父曰く「ギターやるとバンドやるからダメだ」と言う理由だった。
短縮して説明すると
「音楽では食っていけない。例えプロになっても食っていけるのは一握りだし苦労するし、すごく厳しい世界だし、お前をそんな世界には進ませない」
との事だった。なぜそんな事を言うのか?
(抱かれているのが私、右はそっくりの姉)
色々紐解いていくと。どうやら父は若い頃ずっとバンドをやっていたらしく、作詞作曲も担当してグループ・サウンズというのをやっていたらしい。名字の「三田村」を元に「サンダース」と言うバンド名でやっていたらしい。そこは「サンダーソンズだろ」とツッコミたくなるところだが、グループ•サウンズとは昭和の音楽シーンで一世風靡したいわゆる''GS''である。このバンドが最終的には大ヒット曲「ブルーシャトウ」で有名なブルーコメッツ(先月リーダーでドラムのジャッキー吉川さんが81歳で亡くなられたという報道がありました。とても残念です。)というビッグミュージシャンの前座も務め。遂にメジャーレーベルからの誘いも来たらしいが、なんとその契約を断り、そのまま高島屋に就職し、布団売り場、紳士服、婦人服、インポートブランドなど、布、アパレルの世界で生き、家族を養ってくれた様だ。
(補足すると両親は僕が二十歳の頃に一度離婚している。親父とは15年程音信不通な時期があったが、戻ってきた親父の部屋に行くと使い込んだエレキギターとアコースティックギターが置いてあった。どうやらギターは続けていた様だ 。両親は縁あって数年前に復縁している。)
何故メジャーレーベルの契約を断ったか?当時の音楽の世界は今よりも色んな意味で厳しく難しい世界だったという。よく分からないが親父はそれを一言にまとめて「ヤクザな世界やさけぇにあかんぞ」と言っていたのを覚えてる。相当なワルだった父が若い頃から暴れ放題でバンドも好きなだけやってきてその世界の厳しさも味わってきた様だ足を洗う様にきっぱりバンドは辞め、一心に働いて姉ちゃんや俺を育ててくれたというわけだ。バンド大好きな息子としては「何でトライしなかったんだよ」と思ってしまいそうなところだが、その覚悟と決断があって僕や姉の今があるわけだからこれは一重に「親父ありがとう」である。
しかしながらバンドに名残があったからなのか、子供ながらに印象深かったのはとにかく歌っている事が多かった。家でもギター弾きながらよく歌っていたし、カラオケにもよく連れて行って貰ったもんだ。
(親子でとてもぽっちゃりしてた頃)
小さな頃僕は親父の真似をして何度もギターを触ってはみたが子供ながらに才能がない事がすぐ分かった。何度かチャレンジしてみる俺を見ても親父はやっぱり教えてはくれなかった。「あの世界にはお前は行かさん!」と語気を強く何度も言われたのを覚えている。
実は自分の母も高島屋のアパレルで働きながらコーラスをやっていて歌がとても上手かった。
姉もアパレルで働きながらも趣味で良く歌っていたのだがこれまたとても上手かった。明らかに差は歴然で自分だけが全然下手くそだった。今でも家族の歌を聴く度にその差を実感する。
そうなのだ。ウチは服と歌の一家だったのだ。
しかし因果なものでなんやかんやでこの僕も16歳の頃親父に内緒でエレキギターを購入し、18歳の頃にはバンドを始めてしまう。
(北大津高校在籍時、こっそりギターをかじり始める)
そしてバイトに関しては大学の頃からまんまとアパレルで働き始めてしまうのだ。特に父や家族に勧められる訳でも無く自分から''服''や''ファッション''に興味を持って面接に行き、働く事になったのだ。するとこれが不思議な事にしっくりくるのなんの。働き始めてすぐにそれが天職だと思った。「バンドもやってるけど俺はきっと親父の様にアパレルで生きていくんだな。血だな。」と直感した。それぐらいしっくり来たのだ。
しかしながらこの服屋を通じて音楽に関する出会いもあり、曲を作る事にものめり込んでいき熱心にやっていたのだが、ライヴも楽曲も仲間の間での評判が少しずつ良くなっていった。それでもアパレルでやっていくんだと一生懸命働いていた中、ひょんな事から東京に居るmobstylesのトシさんと知り合う機会を貰い、バンドの環境が急転していったもんだから、ひとまずバンドに集中して一生懸命やってみようと思ったのだ。
服屋は「いつでも戻って来い」と言ってくれていたのでいつかまたその「天職」に戻ればいいと思っていた。だけど今では音楽も天職と思いたい自分も居る。人生の中で二つも天職を感じれるのはきっと幸せな事だろう。出会いと仲間と先輩方にも感謝だが、父から譲り受けた「血」のおかげとも思っている。
振り返れば服も音楽もまんまと父を受け継いでいる様に思える。
(2000年頃。京都は新京極のダイアモンドビル前orangecountyというお店。この時inspiritという格闘技サポートブランドで佐藤ルミナくんや桜井マッハ速人くんのTシャツなどが大人気で我がorangecountyでも連日ソールドアウトだった。僕の奥にそのポスターが見えますね。僕はinspiritのドラゴンエンブレムの黒のTシャツと佐藤ルミナくんの''R''の文字の下にアンダーバーが入ったTシャツがお気に入りでいつもそれを着てライブしてました。)
話を現在に戻しますが。(時を戻そう)
少し前面会に行った時、親父を励ましたくて、親父にありがとうが言いたくて、親父の耳元で「服も歌もええ感じでやれたんは親父のおかげや。親父がくれた血と感性のおかげやし。そして親父が高島屋勤めてしっかり養って育ててくれたからや。俺には親父の血が流れてるんや。」
と何度も耳元で大きな声で話した。
親父の焦点は合わずずっと無反応で理解している様にも聞こえてる様にも見えないのだけど「聞こえているはずや。話せへんだけや。」と信じて伝え続けた。
たまに一瞬目が動いて自分と目が合ったかと思えばすぐにまた口を開けて放心状態になってしまう。ずっと話しかけても30分に一度ぐらいほんの一瞬目を動かして反応してはまた「あっち」の世界に戻ってしまう。
帰り際に
「親父の才能をもらったんやぞ。親父の血や。親父のおかげや。分かるか!ありがとうな!」と抱き締めて大きな声で言うと一瞬’’戻って’’きた。
僕の目を見た後ギュっと目を閉じて顔を真っ赤にして「う〜。。」と力一杯声を振り絞って涙を一筋流した。
親父が「こっち」に居られるのは毎回ほんの5秒間ぐらいの間だけだ。
その後すぐにまた向こうに戻ってしまってその日はそのまま戻ってこなかった。
僕は感情を交わせたと思ってとても嬉しかった。
本当は特に意味の無かった動作だったのかも知れない。
僕が勝手にそう思い込んでいるだけかもしれない。
どこかが痛かったのかも知れない。
確認する手立ては無いが僕は意思を交わせた様な気がして嬉しかった。
ほとんどピクリとも動かなくなっていた親父の声が久しぶりに聞けたし、
何か親父の思いが詰まった「うー」にも聞こえたし、
何より涙を流していた事、そこに感情があった事。
寂しくて嬉しくて自分も涙が出そうになったけど
「何泣いとんねん!このままくたばるとかベタやしやめぇよ!」
と冗談まじりに笑いながら励ました。
こんな時家族はとにかく明るく元気でないといけないと僕らの家族は思うのです。
そして''回復の見込みは無い''と言われているが僕は回復を信じている。
ウチの親父は何かある度毎回しぶとい。
生涯これまでの全ピンチから戻って来ている。
容態はどうなるかは分からない。
我々医師で無い者は特に分からない。
でも人の身体の事って極端な話誰にも分からないのだ。
良くなるかも知れないし、悪くなるかも知れない。
身の回りの親族や親しい人達で色んな奇跡も見て来たし、逆に悪い方の展開も見て来た。
ここで言いたいのは。こんな時愛する者や家族が誰よりも''良くなる''と信じてやる事。
「信じてくれている」というのは自然と伝わるしとても支えになる。嬉しい。ましてや家族なら尚更だ。
「嬉しい」と言う気持ちが回復させることはきっと沢山ある。
動物、マウスなどの実験で、ストレスを与えれば身体に何かしらの疾患が生じる。
毛が抜けたり皮膚が荒れたりする。人間だって悩めば円形脱毛症になったり胃に穴が空いて神経性胃炎になったり胃潰瘍になって胃に穴が空いたりするのだ。
ならばその逆も勿論ある筈だ。明るい元気や愛は人を回復させる。
家族の愛。嫁さんや恋人の愛。仲間の愛。
そこから気力を得て身体の細胞も心も元気になっていくという事も絶対にあると思う。
医師から診て回復の可能性が薄くとも。例えそれが医学的に100%回復の見込みが無かったとしても。愛で繋がっている人ならば心の奥の奥の奥にあるあの魔法みたいな電波みたいなやつで愛と気力と勇気を与えられる筈や。
「信じる力」
あれにはすごい力があんねん。
愛と思い出と親子喧嘩で築き上げた「絆」が生み出す魔法や。
(親父を初めて京都大作戦に連れて行った時)
『ずっと側にいて欲しい存在』
コロナウィルスが原因では無いが、昨年から今年にかけて大好きな叔父と叔母が逝った。
その子供達、つまり僕の従兄弟は最後を看取れたんだけれど。
病床で意識朦朧としながらも苦痛と闘う親を看ながら
「楽にさせて上げたい気持ちもあるけれどやっぱりどんな状態であってもずっと生きていて欲しい」
と言っていた一言とその時の表情が忘れられない。
当たり前だけど、お父さんとお母さんの事が本当に大好きで心から愛する存在なんだなと改めて思った。
「生きてさえいてくれたら」僕自身も一年ほど前に家族を亡くした。
何としてでも助けたかったが叶わなかった。何か方法はなかったのか。自分に出来た事はもっとあったんじゃないか。そんな自問自答と寂しさ悔しさに明け暮れる日々が続いた。
大切な人が亡くなってしまったら残された人は誰しもそんな風になるのは同じだと思います。
「とにかく生きてさえ居てくれたら。」
あなたにもそんな存在、家族が居る事でしょう。
そして忘れてはいけないのはあなた自身も家族にとってそんな存在だという事。
お互いに世界一愛し、世界一贔屓に思い、居なくなったら耐えがたく寂しい。
とにかく生きていて欲しい。
そう思うのが「家族」だと思う。
あなたも誰かの家族。
だからあなたにも死なないで欲しい。生きていて欲しい。
そう自分に言って聞かせてコロナウィルスから身を守り、その他の病気からも身を守り、大切な人も同じ様に守って上げて欲しい。
それぞれに色んな事情があると思いますが、自分と大切な人を守る事。
後悔の無いように自分の最善を尽くして欲しい。
今なんとか生きている親父を前にしてまた改めて思う。
「とにかく生きていて欲しい。」
コロナウィルスは病状によっては命を奪う病気です。
愛する人はあなたが居なくなってしまったら生き甲斐を失くしてしまうのだと思ってあなたは自分を守り、大切な人を守って欲しい。
あなたの最愛の人を思い浮かべて下さい。あなたの子供、あなたの妻、夫、あなたの親、お爺ちゃん、お婆ちゃん、あなたの恋人、親友、恩師。誰でもいい。最愛の人だ。
その人が明日から急に居なくなったら。もう二度と会えない存在になってしまったら。
それをどれだけリアリティーを持ってイメージして、大切にするとはどういう事なのか?守るとはどういう事なのか?
そうならない様に身を守るんです。大切な人を守るんです。
あなたが居なくなってしまう事は相手は生き甲斐や生きる意味を失くしてしまう程に悲しい事なんです。
生きてさえいれば何にでも何度でもチャレンジ出来ます。
あなたも、あなたの大切な人も。
とにかく生きてて欲しい。
新型コロナウィルスは無症状であるケースが非常に多い。ならば自分はもう既に感染している前提とし、大切な人を守る為に何をしたら良いかと考えて色んな事に気をつけていくべきではないだろうか。
そしてそんな中、もう一つ忘れてはいけないのが僕達が生活する為、生きる為に働いてくれている医療従事者の方々や、食料品売り場、その他みんなが生きていく為に緊急事態宣言下の今も働いている人達への敬意と手当てと出来る限りの安全対策を取った環境の提供だ。
そんな人達がより良い環境で闘病する人々の看護に取り組んだり、みんなの生活を支えたり出来る様にその環境を支援できる立場に居る方々には考え得る最善を講じて頂けたらなと願うばかりです。医療、食品売り場、又、政府の方達も同じですが、感染リスクがあるこの状況でも休む事なく、自粛する事無くそれぞれの役割、責任、立場に殉じて尽力頂いている方々本当にご苦労様です。心から敬意を払いたいです。みんなの命と生活をリスクがある中で守ろうとしてくれている人達です。
そして以前も言いましたが、感染者がもし身近に居ても差別をしない事。
「もし自分が感染してそれがみんなに知れて誹謗中傷を受けたら。」
という事を出来る限りリアルに想像して感染した人の気持ちになって考える。
相手の気持ちになって考える事を「思いやり」と言います。
優しさは想像力です。
傷つけ合うのでは無くて支え合う事。
この長いトンネルを皆が無事に乗り越えられますよう心から願っています。
必ずまた生きてまた会いましょう。
ほんでまたライヴしようや。
一生後悔せぇへん為のしばしの辛抱や。
みんなで励まし合って助け合っていこう。
そして大好きな親父は今も闘っています。なるべく長く、なるべく穏やかに生きていて欲しいと切に願っています。
(数年前、親父が倒れる少し前の事。初めてギターを教えて貰った。)
親父にはいつも俺ら家族がついてる。
みんなにとっての家族もそうだし、家族にはあなたがついている。
家族だけで無く''大切な人''にとってあなたも''大切な人''
ほなまたな!また必ずライブ会場で生きて会おうな!
それまでみんな元気丸出しで行こう!
落ち込んでても明るくしていても同じなら明るくやっていこうじゃあないの!
僕もあんたも明るくやっていこうじゃあないの!