確かに「毒親」そして「毒長老」問題で片づけてよい問題ではない。:容認したことが問題。 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

宗教2世で苦悩する方が、それを「毒親」という言葉を使って親子の問題に過ぎないと分類されることについて異論を表明しています。それが組織の逃げ道につながることになりかねないと危惧しておられます。

 

これは全くその通りです。これは親子の問題として片づけてはいけない問題です。

 

確かに親から体罰を受けたことがない子供もかなりの数いますが、一方で激しい体罰を加えた親はその数をしのぐかもしれません。ただし道理にかなった範囲での体罰もありうるので、「体罰を受けたか、受けていないか」の線引きはするべきではないでしょう。子供が納得し、今なお体罰を受けたことに感謝している子もいるからです。

 

それを差し引いても、拷問に近いレベルの体罰を受けた子供たちが看過できないレベルで、いることは事実です。

 

そのような親の中には「長老や円熟した姉妹たちがそうするように言われた」という場合もあります。

 

こうなると親子関係の枠を飛び出して、長老、つまり会衆内で権威を持つ人の影響が大だと言えます。つまり「毒長老」が存在していたということです。

 

ところが長老にしても体罰を推奨した長老と、しなかった長老もいます。ですから会衆内で体罰が激しく行われた会衆とそうでない会衆とには差があります。

 

ただ体罰をしなかった親、体罰を推奨しなかった長老がいる以上、組織として「体罰を推奨しなかった」という言い分もわからないではありません。

 

ではここで何が問題かと言いますと、たとえ組織が体罰を推奨しなかったとはいっても、そういう体罰を見過ごしていたという事実です。集会場や大会会場で体罰を打たれるために、泣きわめく子供を演壇から支部委員は見ていました。にもかかわらず放置したのです。

 

容認していたのですからそれは消極的推奨になるのです。

 

またべテル内で支部委員ではないにしても体罰を推奨した重鎮もいました。アベタカシなどはそうでした。アベは「ベルトレスのズボンはだめだ」とか「聖書は3冊持つべきだ」という独自の見解を旅行する監督時代に会衆に広めていました。

 

こういう人間を放置したことの責任は明らかに日本支部にあります。

 

アメリカでのコンティ裁判でなぜなぜ組織に多額の賠償金が課せられたかというと、児童性的虐待をした元長老を組織がかばったからです。なるほど組織はあらゆる形の児童性的虐待は否定します。しかしその言葉が実行されているかどうかの監督責任が組織にはありますが、組織はその責任を放棄したがゆえに組織は敗訴したのです。

 

この「罪を見過ごす」というのが日米問わずものみの塔の致命的欠陥なのです。

 

例えば学校内でいじめがあったときに、学校側はまずそれを否定します。「当校ではいじめに対しては常に注意を促している」というでしょう。しかし実際にいじめがあったときにもし教諭なりがその事実を知りながらも放置すれば責任は免れません。

 

大津の中学校でいじめ事件があったときにそれを目撃しながらも担任教諭M・Sは笑いながら「やりすぎんなよ」といった程度で済ませましたが、それが大いに問題になり、退職しました。

 

しかしものみの塔日本支部は激しい体罰を知りながらも「やりすぎんなよ」という言葉すら出しませんでした。

 

苛めで自殺した生徒が激しい体罰を受けた2世たち、いじめを行ったのが長老たち、やりすぎんなよという言葉すら出さなかったのが、ものみの塔日本支部に置き換えることができるでしょう。

 

そこで被害者である宗教2世たちが、とるべき手順はまず親に激しい体罰を推奨した長老たちが明確ならば、それを個人的に訴えること、そしてもし組織がその長老をかばったらその時組織を糾弾するというものです。

 

それをいきなり組織を相手に訴えるので組織は逃げることができるのです。手順が間違っています。