1世と2世の違いの中に、信仰の質の違いがある気がします。勿論1世2世というだけでステレオタイプな区別をするつもりはありません。
思うにもともと1世は目に見えなくても何か霊的な存在はあると思っていた人が多い気がします。私もそうでした。
そういう人は創造者の存在を知ったときにエホバの証人の教えをすんなり受け入れていくのです。
たとえで説明しましょう。(なんだかスティーブンレットのような言い回しですね、クソ!)
建物を建設するときにはまずしっかりと基礎工事をし、できれば鉄筋で頑丈な骨組みを作り、ボードなどを貼り付け、外観を整えて完成させます。
エホバの証人の信仰なるものは本来天地創造を確信し、それが堅固な土台と骨組みを意味します。そこに教義や教理などで肉付けし、世の悪を否定し、自分たちのすばらしさを強調し、特権という装飾品をちらつかせることで煌びやかな御殿を作り出すのです。外観には純金や宝石をちりばめるのは、さながら金閣寺や黙示録で出てくる宝石でできた神殿のように見えるのです。
ですから天地創造を信じない人は土台も骨格もなく、ただ外観のすばらしさをそうだと思い込まされ、自分も外観を整えることにいそしみ、何となく”信仰”めいたものを持っている気がしているのです。勿論1世でも天地創造を信じない人もいますし、2世の中でも天地創造を信じている人もいます。それでも何とか表面的には一致しているように見えたのは、その煌びやかな御殿のような外観が素晴らしさを自分も堪能したいと思ったのです。わかりやすく言うと「特権」という飾りを手に入れることだけを人生の目標とし、中身となる鉄骨などまるでないのに、飾りを手にして「なんてすばらしいのだろう、私の信仰は!!」と錯覚します。そして自分も寄付や労働によってその純金や宝石や装飾品をさらに支えたいと思ったのです。
ところがその外観に張り付けた純金に見えたものも宝石もすべてただのメッキやイミテーションで、自分の差し出した寄付が、支配者層の私腹を肥やすためだけに使われていると知ると、「ここにはやはり真理はない」と思うようになります。
いわば外観だけで建築された建物で、まるで映画のセットのようで裏に回ればベニヤ板で作ったような信仰だったのです。
ですからその宝石の1ピースだけを抜き去ると積み木崩しのように崩壊するのです。
本来ならば組織内の不完全な人間を見ただけで信仰をなくし、今では「創造者など信じていない」というのは、最初から創造者を信じていなかったということにすぎません。土台も骨組みもなかったのです。そもそも組織内で不完全な人間を見て信仰をなくすというのは、「エホバの証人はすべて完全な人間であるべきだ」という妄想から発したものです。それは義にすぎる見方です。「1件もあってはならない」というレベルの極めて厳しい見方です。
そういう人がいくら「私が信仰をなくすきっかけとなったくだらない人間は私の大恩人だ」と言ったところで、鉄骨の信仰を持った人への説得力は皆無であくまでも自分と似たような信仰めいたものを持っている人だけが共感するのです。
たとえが少々不謹慎かもしれませんが、南三陸町の防災庁舎は津波で見るも無残な姿になりましたが、それでも鉄骨は残りました。天地創造を信じている人はたとえ組織がいくら不備であったとしても骨組みとなる創造者信仰は残るのです。
しかし映画のセットはいとも簡単に少しの揺れで倒れます。2世の中にはそういう信仰めいたものを持っている人が相対的に多いのではないかと思われます。
そういう人たちにとって「親が信仰を強制した」という言葉は真実なものなのでしょう。
ただ2世の中で天地創造を信じている人は親の導きで信仰を抱けたことの感謝している人もいます。ですからネットワーク団体の「親は子供に信仰を強制してはいけない、休みの日に大会へ連れて行くのは児童虐待だ」というのはあまりにも極端な見方です。親が子供の教育をすることはむしろ義務であり、熱心な信徒である親が宗教教育を子供にすることまで否定するのは行き過ぎです。そんなことまで否定すればイスラム教のような文化社会に対する挑戦です。イスラム教が痛いどれほどの宗教儀式を行っているか知らないのでしょう。ではイスラム教の親は子供を虐待するとでも言いますか?人権を考慮しないのはネットワーク団体のほうだといわれるかもしれません。信教の自由ということへの理解が不徹底なのです。
信仰の強制と言ってもかつてのような体罰で無理強いすることは今はゼロではないでしょうが、改善されていることでしょう。
何やら重箱の隅をつつくような活動をしている気がします。