田中弁護士がたとえ大人でも、そして知性のある若者ですらも輸血拒否という命を懸けた信仰をもなぜ持つのか?という疑問をブログで投げかけています。
その答えは、一言でいうと「統治体がエホバが用いる唯一の経路」という思い込みから来ています。
輸血拒否や高等教育や全時間教育への懸念表明、そして完全忌避などに、聖書的根拠があるかどうかなどいくら説得しても通用しないのは、「統治体がそういっているから」という思いから来ています。これは日本支部が「世界本部と相談します。」という姿勢にも表れています。
ですから統治体が分画許容を打ち出せばそれに従いますし、統治体が体罰教育を推奨しないと言えばそれに従います。輸血の医学的見地など関係ないのです。また聖書の分析も統治体の分析と合致しなければ、すべて破棄されます。
その洗脳の足固めとして、統治体はキリストの犠牲を持ち出し、神の絶対正義を打ち出し、そして人間の不完全さと愚かさを教育します。
そして「自分の知恵に頼ってはならない」という言葉を使って信者に「神の知恵」に頼るようにと誘導します。そしてその神の知恵は統治体を通して与えらえると言えば完成なのです。
私の言葉を現役エホバの証人が受け入れられないのは私が統治体を否定するからです。ですから私が「1世紀に統治体などなかった」と言えば彼らは猛反発します。
統治体は日々懸命に自分たちの「神格性」を算段しているのでその影響を受けているのです。