会見で、団体のメンバーは159件の寄せられたことについて、「少数だという意見もあるかもしれないが、1件たりともあってはならないこと」。今回の1カ月間の調査終了後にも被害申告が寄せられたといい、「まだ話せない人もいるかもしれない。氷山の一角に過ぎない」と話した。 エホバの証人は朝日新聞の取材に対し、「任意団体がまとめたアンケートの内容は信ぴょう性が定かでないため、個別の事例についてはコメントいたしかねる」としている。また、児童虐待に関しては、「長老たちは児童虐待に関する訴えや報告を聞いた場合、当局に通報するよう求める法律に従う。特に児童に対する性的虐待は極めて邪悪な行為であり、そうした行為を憎悪している」とコメントした。
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この団体が動いたことは世間の耳目を集めるという点での意義はあります。ところがその意義を帳消しにするのが団体メンバーの「少数だという意見もあるかもしれないが、1件たりともあってはならないこと」という非現実的な全否定思考で、これは少しでも非があるとハルマゲドンで滅ぼされるというエホバの証人と同線上の思考です。
こういう発言は人間の不完全さを考慮せず、エホバの証人は完全な人間でなければならないという極めて厳しいものであり、それこそ子供の少しの失敗を許さず激しい体罰を加えた親の姿勢と同じなのです。言い換えればこういう姿勢こそがほんの少しでも男女間の性的接触をした息子や娘を激しく鞭打った親と同じなのです。
古代イスラエルでも神殿は不道徳の巣窟だった時期もありました。聖書中ではだから幾度も「悔い改めよ」と民に告げられました。また1世紀のイスラエルでも姦淫をした女性はいました。ですからいくら信仰があってもこの種の問題がなくなることはないのです。
ところで被害弁護団の調査では581人からの回答が得られその9割が信仰を持っていないということでした。
信仰のない人間に神からのブレーキがかかる良心などもちわせず、その良心が機能しないこともあるのです。オフ会を楽しんだJなどは、長老の時でも数人の女性信者と性交渉を持っていたと言っています。宗教2世の悲劇どころか宗教2世の役得に味を占めていました。「肘で胸をつんつん」に関しても、記念式のワインに赤インクを落としたと言っていた大人気ブロガーが似たようなことをしていたと楽し気に書いていました。これも2世の役得です。宗教2世に性加害をおこなったのも同じ宗教2世です。そしておそらく信仰も持っていないのでしょう。ですから予型に性加害犯罪は2世の間で広がるのです。
それと大事な点ですが、被害にあった人たちが実際に証拠を提出しその罪が認定された場合もあるでしょうが、その時にその罪は不問に処せられたかどうかが重要なのです。
不問に処せられたのであるならば組織ぐるみの隠ぺいですが、少なくとも日本の場合この種の問題に対する協会の裁きは厳格です。
信仰もない人間が集まる場所で「一件たりともあってはならない」というのは非現実的な発言です。
警官が不祥事を起こしたときに「このようなことが二度と起こらないように」と謝罪会見をしますが、それでも起こる犯罪はあります。聖職者と呼ばれる教師でもそうです。ですから大事なのはそういう不祥事が起こったときにどう対処しているかということなのです。厳格な対処がされなかったというならば批判してよいと思われます。ですからやはり他の団体と比較して多いか少ないかということを論じるのは判断基準としては穏当なものだと言えるでしょう。実際オーストラリアのエホバの証人で児童性虐待問題が生じたときに、カトリックと比べてエホバの証人の犯罪数は極端に低かったのです。
”159”という数字が大きいか少ないか、少ないのではないかという見解を咀嚼することなく、検証もしないで、ただ言われたから言い返すという対抗策として「1件もあってはならない」と言い出すのであれば抗弁のための抗弁でそれは現実的なものから遠ざかるのです。勿論その数字が氷山の一角であるという点は同意するのですが、先のような全否定的表現は好ましいものではないでしょう。
支部の回答は十分予想されたものでした。
「任意団体がまとめたアンケートの内容は信ぴょう性が定かでないため、個別の事例についてはコメントいたしかねる」としている。また、児童虐待に関しては、「長老たちは児童虐待に関する訴えや報告を聞いた場合、当局に通報するよう求める法律に従う。特に児童に対する性的虐待は極めて邪悪な行為であり、そうした行為を憎悪している」
支部が「信憑性」を持ち出すことは容易に予想できました。自衛隊でセクハラ問題が取りざたされたときに女性自衛官は実名を明かし、メディアに顔を出してどういうハラスメントを受けたかということを詳細に語り、国民はそれが事実だと判断したのです。ジャニーズの性虐待問題にしても被害者は顔を出している人が多いですね。だから信ぴょう性があるのです。それでも旧ジャニーズ事務所は被害にあったという人と個別に面談しています。ただジャニーズの問題は組織のトップである一人の人間に訴えが集中しているのですが、エホバの証人の場合末端の信仰のないかもしれない人間との個別案件ですので、それで組織の責任を問うのも非現実的です。
そしてやはり性加害問題は個人的な問題で、いくら指導しても生じる問題です。ですから訴えるにあたって「このようなことは一件たりともあってはならない」という強い言葉はさらに手厳しい教育を要求しているのです。このような言葉こそハラスメントを生み出すものです。
考えてみてください。エホバの証人の親が子供に異性との交遊に異常な制限を設けたのも、また組織が高等教育を勧めなかったり、全時間就労を勧めなかったのも、世との交流で性的不道徳に陥る危険を避けるためであるというのが大義名分でした。したがってこのような発言は組織の方針を間接的に容認したことになるのです。私が組織側の人間ならそのように言うでしょう。
であれば組織内でこのようなことが一件たりともあってはならないというのを徹底するためには信者間での異性間の交流を一切避けるよう手厳しくしなければなりません。極端な話、信者の女性はイスラム教のように顔を覆うような服装まで要求することになるのです。極端な意見は極端な風習を生み出すのです。
また組織の児童性的虐待は極めて邪悪な行為であるという言葉は、それはそれで一片の事実であると言えるので真っ向から否定はできないでしょう。ただいくらそう指導しても信仰のない人間が行なう可能性は高いので、むしろ信仰もないのにバプテスマを受けさせようとする幼児からの教育が間違っているのです。
性被害が発生しやすい環境というのは事実です。ですから書籍研究を個人の家で行うのはなくなったと聞いています。ですから組織側の必死に戦っているのでしょう。(まあ書籍研究で扱うほどの書籍を今の統治体の知性では生み出せないのもあるでしょうね。)
ただ思うのに1970年代の親は、まだ日本全体が一般人でも道徳面で清い水準にありました。婚前交渉にもまだまだ一般的に眉を顰められる時代でした。ですから同じ感覚で、堕落した道徳環境で育った子供たちの世代に対しても純潔を保つことができる環境だと考えていたのもあると思います。それが残念な結果を招いたのでしょう。親もつらかったでしょうね
