久しぶりに「十戒」を視ました。1970年代半ばになぜか突然起こった聖書映画ブーム。1956年制作の「十戒」や1965年制作の「偉大な生涯の物語」、1966年制作の「天地創造」のリバイバル上映がありました。聖書関連映画では1959年制作の「ベンハー」などもありました。
テレビでも「聖衣」、「サムソンとデリラ」などが放映されていました。
「十戒」は難波の戎橋劇場、「天地創造」は梅田のOS劇場に見に行きました。いずれの映画館も今はもうありません。戎橋劇場では数人のシスターが見に来ていましたね。
さてその「十戒」です。
モーセはエジプトにおいてファラオの王子として栄光に包まれた生活を送っていましたが、自分の出自がイスラエル出ることを知り、その奴隷生活に身を落とすシーンがあります。
来る日も来る日も、エジプトの都市建設に使う煉瓦を作るために、ただ藁を泥に混ぜ、踏み続けるだけの苦悩の日々を送るイスラエル人。そして惨めな奴隷の生活を送る彼らの神を「奴隷の神」とあざけるエジプト人たち。
それでもイスラエル人たちの中には聖書の神に対して敬虔な信仰を持つ人もいました。過ぎ越しの祝いをしたのはその一つです。
エジプト人から見れば惨めな生活に見え、侮蔑の言葉をかけ続けようと、自分たちの救いを信じるイスラエル人から見れば、神を信じない人の言葉など歯牙にもかけることはないでしょう。
そして、そのエジプト人に対する裁きが臨み、イスラエルは解放されます。
この物語を神話だと片付ける人ももちろんいるでしょう。しかし歴史的事実として受け入れているのが信仰を持つ人たちの心なのです。
繁栄を謳歌し物質的に恵まれたエジプト人にとって、そのような繁栄はカスミのようなものでしかないのです。
エホバの証人の生き方を侮辱し、時に哀れに思い、蔑む人たちはちょうどエジプト人のようなものかもしれません。
確かに一般的な視点で見れば、エホバの証人の生き方が、みじめに映るでしょう。物質的には恵まれず、家庭も持たず、おんぼろ車に乗り(近頃はそういう人も少なくなりましたが)、希望を持ったまま年老いていく姿はもう憐みの対象でしかないのです。
イスラエルの神を奴隷の神と呼んだエジプト人のように、エホバカだとかアホバだとか青いなんちゃらとか呼ぶ人たちの言葉は隅々に至るまでエホバの証人に同情しているようで、蔑んでいる様子がいくら弁明しようが、その心根がまざまざと浮かび上がっています。真の同情しているならば、乗っている車まで侮辱の範囲に含めることは決してないと断言します。自分が恵まれているからと言ってその人たち侮辱するような真似をすべきではないでしょう。そういうのをわかりやすく言うと傲慢というのです。そして一緒になって侮辱する人たちもまた同じような醜い表現でせせら笑っています。
それは信仰を持つ人たちに対する無理解以上の何物でもないのですが、元エホバの証人でありながらもそのような言葉を使う人たちは、「十戒」の中で、エジプト人にへつらってイスラエルのに反逆するように扇動するデーサンのような人物に象徴される人たちでしょう。
昔から言っていることを繰り返しますが、そのような人たちはエホバの証人になってはいけなかった人たちなのです。きっとほかの宗教の信者になっても、脱退した後はその宗教の悪口しか言わないことでしょう。
人間は弱いものです。人生において様々な嘆きや悲しみ、そして不安に直面する中、救いを宗教に求める人たちへの思いやりは決して忘れるべきではないと私は思います。今は表面的に惨めな生活をしている人たちのことがたとえ理解できないとしても、その方々を蔑むような言葉で公にするのはその人自身の品格が問われるのです。