ジャンヌ・ダルクの信仰とエホバの証人の献身:それを利用する堕落の極みは、邪悪な統治体と日本支部 | 世の中とかなんやかんやに対する感想

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できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

イギリス国王の戴冠式が厳粛な雰囲気の中で執り行われました。「君臨すれども統治せず」の理念は日本の象徴天皇とやや似ているところもあり、象徴国王的なところもあります。

 

戴冠式というのはヨーロッパでは非常に重視されるものであり、世界史の教科書でもフランク王国(今の仏独伊三国の前身)のカール大帝の戴冠が西暦800年に行われたというのは記憶しています。

 

さてこの戴冠式を見て思い出したのはジャンヌダルクでした。

 

ジャンヌダルクという名前をどこかで聞いたことがある人も多いかと思いますが、彼女が一体何をしたのかまでは知らない人もいるでしょう。少しかいつまんでまとめます。

 

ジャンヌダルクは15世紀のフランスに登場した少女です。当時は英仏が百年戦争を行っており、フランス国土が戦場となっていました。フランスはイングランドに押され気味で、国土の大部分を占領されていました。そこで登場したのがジャンヌダルクです。

 

ジャンヌは13歳の時から神の声を聴き、やがてその声は「フランスからイングランドを撃退し、フランス王シャルル7世に戴冠せよ」というものに聞こえてきます。当時は魔女裁判も頻繁に行われていましたので、ジャンヌには魔女の疑いもかけられましたが、ジャンヌの確信に満ちた言葉に信頼を寄せたフランス兵はやがて大きな戦勝を収めました。

 

その結果やジャンヌの予言通りに事態が運ぶのをを見て王太子シャルル7世はジャンヌから戴冠され、フランスの国王となりました。その後もジャンヌ率いるフランス軍は勝ち進み、ジャンヌのますます高まる人気と神がかり的に勝ち進むのを知ったシャルル7世はジャンヌに多分嫉妬と恐れを持つようになります。フランスはイングランド撃退まであと一歩のところまで迫りながらも、シャルル7世はイングランドと和睦を結びます。ジャンヌは愕然とし、自分の戦う理由がなくなったことで途方にくれます。

 

その和睦も長続きせず、ジャンヌはイングランドに捕らえられますが、捕虜であるジャンヌの身代金をシャルル7世は支払おうとせず、事実上ジャンヌはシャルル7世に見捨てられました。

 

結局イングランドの法廷でジャンヌは裁かれることになります。当然のことながら「イングランドの排除が神の声だ」とするジャンヌに対しては不利に進行します。イングランド法廷はジャンヌが聞いた声は神の声ではないと認めさせようとしますが、ジャンヌはそれを拒否します。そうなるとイングランドにしてみれば荒唐無稽なことを言うジャンヌは魔女になるので火あぶりの刑が科されると脅します。

 

さてイングリッドバーグマンがジャンヌを演じる「ジャンヌダーク」ではこの時の様子を克明に描いていました。勿論脚色はあるでしょうが、その脚色もジャンヌがカトリックで聖人とされるからでしょう。

 

ジャンヌは火あぶりの刑を最初は恐れ、非公開の場で自分が神の声を聴いたということを否定します。しかしそのことを後に激しく悔い、公開裁判でジャンヌは前言撤回し、神の声を聴いたと言います。当時のカトリックの聖職者たちは何度もジャンヌに「悔い改め」つまり自分の罪を認める機会を与えますが、ひとたび妥協したことを恥じるジャンヌは頑として固い決意を示し、「火あぶりよりも信仰を失うことを恐れます。」と毅然とした態度で述べました。ジャンヌは魔女として有罪になり火あぶりの刑に処されます。19歳です。

 

刑柱に掛けられたジャンヌの上には「魔女。偶像崇拝をした背教者」という侮辱的な文字が書かれています。

 

ジャンヌは終始神を呪うことをしませんでした。常に祈りで「優しい神よ」と語りかけ、自分が火あぶりになるとしても神の懐に抱かれることへの信仰を持っていました。若干19歳の少女のこの強い信仰はそれを見ていた多くの人の心を打ちました。命令故に火あぶりの火をつけた兵士は、「神の子を殺してしまった」と号泣します。(このあたりの演出はまるで「偉大な生涯の物語」「ベンハー」のキリスト処刑を彷彿させるものです。)

 

ジャンヌダルクはカトリックからは後に無罪宣告がなされ、いまだにヨーロッパでは国を超えて根強い支持があります。それこそマリアに次ぐと言っていいほどの敬虔なキリスト教徒として崇敬を集めています。

 

さてここで考えるべきことです。

 

ジャンヌはいわば戦う少女です。しかも英仏の中立の立場ではなくフランスの勝利のために戦う英雄です。また神の声を常に聴いているというその言葉今でいうなら何らかの精神疾患にかかっているとみなされるでしょう。

 

しかしジャンヌに根強い支持があるのはそこが問題なのではないのです。ジャンヌは自身の信仰を貫くために火あぶりの刑に処されることも選んだことにあるのです。単に戦いを勝利に導く神の子としてもてはやされているわけではないのです。キリスト教の信仰を持たない日本人でも、命を犠牲にするほどの信仰を正直になって語り、決して自分を偽ることのない態度に感銘を受ける人もいることでしょう。

 

「火あぶりになるよりも信仰を捨てる方が怖い。」

 

この言葉は輸血拒否をするエホバの証人の思いと重ねることができるでしょう。彼らの多くも「輸血を受けて死ぬことよりも信仰を捨てる方が怖い」と考えています。ですから日本の法廷でもそのような信仰を示すエホバの証人を尊重する判決が下ったのです。その判決はジャンヌダルクの信仰をリスペクトするのと同じ視点なのです。憲法が認めている「信教の自由」とはそこまでのことも意味するのです。

 

輸血拒否問題を取り上げ、それを非難するエホバの証人批判者の中には、残念ながら気遣うふりをしながら実はバカにしている人が散見します。その方々の中には親から信仰を強制されたという人もいる一方、かなりの成人になってからも自分で輸血拒否カードのサインした人もいます。後者の方々は犠牲になった人たちに対して本当の意味でリスペクトする気はないようです。自分もかつては信じていたにもかかわらず、ジキルとハイドのように豹変する様は、信仰を貫いた人に比べれば、はるかに人間としての格は低いと言わざるを得ません。おそらくそういう人はジャンヌダルクをもバカにするでしょう。

 

殉死という言葉があります。明治天皇が崩御したとき乃木希典は自らの命を閉じました。昭和天皇崩御の時には約10人殉死した人がいてその中には17歳の少年もいたのです。端から見ればバカげていると思われても、命を自分以外のもののために捧げる死を私は尊いと思っています。

 

刑事ドラマでも自分が罪を犯さなくても愛する人をかばうために殺人犯を装う人もいますね。そういうたぐいのものなのです。そこまで他者を愛することができる人生を私は幸福ではなかったかと思うのです。

 

他の人がどう思おうが、エホバの証人がその信仰を崩さないのはやはり神に対する献身を真剣に考え、自分の人生で神を喜ばすことができればそれを行いたいと思っているはずだからです。

 

だからこそ、それゆえにこそ私はそういう信者の信仰を言葉巧みに利用するものみの塔日米トップには心の底から糾弾意欲を感じます。統治体も日本支部も到底人間の心を持っているとは言えないのです。いくら取り繕うとです。偽善者であることには変わりません。

 

「ジャンヌダーク」ではジャンヌが無実であると知りながらも彼女に「背教者」としての汚名を着せ、を刑柱に掛けた僧職者もいます。今ものみの塔統治体およびものみの塔日本支部は醜さの骨頂ともいえるほど、自分たちに霊的戦いを挑むものに「背教者」のレッテルを張って、自分たちの目に触れないようにしているのです。映画で裁判を行った妊娠20ヶ月くらいに肥え太った司教はジャンヌを「我々が救えないくらい堕落した」と言いましたが、同じように肥え太ったジェフリージャクソンなどを始めとした統治体も日本支部支部委員も、自分たちを批判する人たちに同じ言葉を言いたいでしょう。しかし実際に、救えないほど堕落しているのは紛れもなく統治体とものみの塔日本支部です。ものみの塔の指導者である彼らはキリスト信者としては大罪を犯しています。