批判ばかりしているから論理矛盾に気が付かない:ものみの塔広報の思う壺(青字4か所追記) | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

とにかくあら捜しばかりしている批判ロボットになると自分の論理の矛盾に気が付かなくなります。それはまるでカルト宗教のようですね。

 

「自分の良心を守るためにの医師の良心を傷つけてもいいのか」ということでエホバの証人が命を賭けて輸血拒否する様子を身勝手、自己中だという人がいます。患者の良心<医師の良心という見方での論です。

 

まず最初に理解しておかなくてはならない点として、輸血拒否をするエホバの証人が一体どれほどの悲愴な決意をしているかに対する一片の顧慮もありません。「楽園がくるからそれでいいや」などと軽く扱っていること自体が命を軽く見ているという認識がありません。これはもうエホバの証人を人間扱いしていません。

 

それにエホバの証人は輸血以外のあらゆる医療処置を望んでおり、それは決して自分の命に対して軽視しているわけではないのです。この理解が根本的に抜け落ちています。言い換えれば輸血拒否の持つ意味を全く理解していない故のものであり、この女性は確かにエホバの証人であった過去はありますが、その本質面では全くエホバの証人ではありませんでした。ですからこういった女性の言葉を「元エホバの証人」の言葉としてエホバの証人を理解するための指針にすると、エホバの証人を正しく理解できないことになります。

 

そもそもそういう信仰など持っていないのにバプテスマを受けたこと自体が自己欺瞞でしかないのです

 

私も今は輸血拒否には聖書的根拠もないと思っていますし、分画許容の時点で輸血拒否の教理は崩壊しているわけでそういった組織の教理の矛盾を指摘しています。しかしその教理を信じていたころに身勝手だとか自己中だとかと言われると、しかもまるで非信者と同じ見方で元エホバの証人に言われると「自分もエホバの証人だったくせに、なにも理解をしていないじゃないか」とその非情な心に愕然とするでしょう。

 

さらに「自分の良心を守るために他の人の良心を傷つけてもいい」と、もし医師の側が感じるならば、患者の良心を無視して強制輸血を施すでしょう。実際その様にした医師もいたのです。それはいいのですか?

 

現在の日本では信教の自由を尊重した結果、法廷では医師の良心よりも患者の宗教的良心が優先されると判断を下したのです。つまり法廷では「患者の良心>医師の良心」という判断が下されたのです。そういう法的解釈が理解できないのです。

 

医師にしても強制輸血で患者がその後の人生を心を折れたまま過ごしたとするならば、たとえ患者の命を助けても自分の判断で患者を生涯にわたって傷つけたことで良心が痛むかもしれません。そういう部分の視点が欠けているのも、例によって多角的視点が持てないからです。

 

信教の自由とはそれほどまでに尊重されるべきもので、それに対する理解の欠如を示している記事に対して「全部正論です」とコメントするバカもいます。めちゃくちゃなことを言っています。こういうのを言いがかりというのです。

 

このようなブロガーやそれにカルト信者並みによいしょする人間がいて、各エホバの証人の悲愴な決意を侮辱する人間が多いのも「組織に不満を持つものの歪んだ結論」というものみの塔広報の言葉を現役信者が受け入れる要因になり、またそういった心ない言葉を毎日毎日毎日毎日繰り返すブロガーは、完全に現役信者を見下し、バカにし、侮辱しているのでそこにアガペ愛のかけらもないので現役信者はますます組織依存を強めるのです。

 

彼女は鈴木大君のご両親を身勝手、自己中と言ったも同然なのです。それこそ批判ロボットになり人間の心を失っています。カルト指導者と大して変わりません。それを「正論だ」という人間は正論の何たるかなど全く理解できない粗末な頭脳の持ち主です。

 

輸血拒否の問題は非常に慎重に扱うべき問題で、それをデリカシーのない仕方で非難の材料にすると反発を与えるだけです。輸血拒否の教理の聖書的見解について批判するのは問題ないのですが、現実にそれを信じている個々のエホバの証人をバカ扱いし、その決定を身勝手、自己中だと批判するのは全く異なる次元の話です。

 

現役信者らはSNSで発信しません。でもそれだけにかような偏った見方の批判を受けると、輸血拒否をますます頑なに執着するでしょう。彼らがそういう決意を新たにするのは、彼らを侮辱するからです。