今はどうか知りませんが、年に一度地域大会(今は地区大会)時に、ベテル奉仕を希望する人たちの集いがありました。会衆内の長老に「桶兄弟はベテルに行ったらどうか」と言われたこともあり、私も一度出席したことがあります。私はやはり「寮生活」に向いていないと思い申込書は提出しませんでした。
ベテル奉仕者が言うには「ベテルにいると支部委員に名前を覚えてもらえるし、統治体成員訪問時には直に接触できるという特権がある。」とのことでした。
それを聞いたときに「は?それって偶像崇拝だろ?毎日エホバに祈ること以上の特権があるのか?」と思いました。何かおかしな感覚をベテルにいると持つようになると感じました。
ベテライトになると近隣会衆の女性信者がモテるという不純な動機の人も結構いましたが、大阪という土地柄「ベテル出身者がなんぼのもんじゃい」という感覚もありました。それにそういうものにまとわりつく女性は正しい価値観を持っていないミーハーですので、いわゆるバカ女にしか見えませんでした。
私はそもそも宗教というものに対して違和感があったのも、特定の人間が高められるからですが、エホバの証人の場合、崇拝するのはエホバだけであり、それ以外の例えば支部委員や統治体成員ですら神が用いる度具にしか過ぎないと思っていたので彼らを高める人たちの心境を理解はできるものの、自分はそういう人間にはなりたくないと思っていました。
さてエホバの証人は出版物などで「霊的に円熟した人になりましょう」と言われます。この霊的に円熟した人とは「神の視点で物事が見れる人」というものです。
では海老名ベテルにいると「霊的に円熟した人」になれるでしょうか。ものみの塔日本支部広報によると、「統治体のご意向」を確かめてからでないと、調整者の乳井健司はじめ支部委員などベテル上層部は自分たちで「神の視点」を持てていないことを白状しました。彼らは信仰の面で自立していないのです。
日本支部は「統治体の視点」を基ととしているのですが、この「統治体の視点」とは時代の趨勢でころころ変わる海の波のようなものですので、日本支部の支部委員はそんないい加減なものに縋りついているので安定した思考も視点も持てないのです。とても恥ずかしいことですね。
そしてその「統治体の視点」なるものですが、グッドタイミングでアンソニーモリス3世が統治体成員ではなくなりました。では統治体成員の時のモリスの言うことはすべて正しかったが、その彼が統治体成員ではなくなったのであれば、これまでのものみの塔組織の考え方から言えば、モリスは「かつてそのような見方の人もいました」級(笑)と片付ける類の人間の一人にしか過ぎないので、到底神の視点ではないことになります。
繰り返しますが、私はエホバの証人の中でも、統治体成員や支部委員とは異なり、敬虔な思いを持つ信仰者はいるはずです。「霊的に円熟を目指す」人たちは決して日本支部委員や、広報担当を含め、そういう態度に倣おうとする地元会衆の長老たちを模範とするべきではないでしょう。もしそんなことをすれば心臓に病を持った人にさらに心的ストレスをかけるような真似をし、未必の故意による“殺人未遂”を侵すことにもなりかねません。
おそらく乳井健司も宣教者として外国にいる間は、確かにそれまでも組織の言いなりになっていたとは思いますが、まだ純粋な心を持っていたかもしれません。周囲の宗教2世の苦しみも覚えていたかもしれません。しかし支部に入ってから堕落したのです。