神への敬虔な信仰と感謝を持つ人たちには敬意を持ちます。 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

洋画を見ていると欧米におけるキリスト教の普遍性とその影響力の大きさには気づかされることが多いですね。

 

洋画の中に反映される欧米人の信仰はそれぞれの立場は異なれどそれぞれが平和を求め、不安や悲しみを神に吐露しています。

 

「戦争と平和」ではナポレオンのモスクワ進軍におびえるロシアの人たちが神に祈ります。現在は同じ正教会でも全世界の非難を浴びているロシア正教会ですけどね。モスクワのロシア人の祈りは虚しくモスクワは廃墟と化します。もっともそれはロシア人が焦土戦略を取り自らモスクワに火をつけたのですが、冬将軍の季節でなければロシアはもっと席巻されたことでしょう。

 

アメリカ南北戦争の黒人の奮闘ぶりを描いた「グローリー」では決戦前夜に神に祈る黒人兵の様子が描かれています。

 

「西部戦線異状なし」ではフランス軍相手に戦うドイツ人の信仰を描いている場面もありました。

 

戦争に駆り出される兵士たちは、戦いたくない人もいるでしょうし、それでも敵兵を殺害したことで神に懺悔をするシーンもよく見ます。

 

黒人差別を描いた法廷ものでは、差別的判決を受けた黒人たちが神に祈り感謝も捧げます。「黒い司法」「アラバマ物語」などあります。

 

食事前や寝る前のお祈りを家族でする場面は無数にあります。貧しい人々は虐げられた人々ですらも置かれた境遇に不平を言うことなく、日々の糧に対する感謝を表します。

 

戦争映画では兵士も市民も絶望の中で神に祈ります。

 

キリシタンを描いた「沈黙―サイレンス」もそうです。

 

「大草原の小さな家」ではメアリーが全盲になって一時自暴自棄になりましたが、それでも神への祈りを思い出します。

 

これらの人たちの信仰は一体どこから来るのでしょうか。

 

たとえ自分たちに祈りが聞かれなかったとしても神に恨みをぶつけることのない人がいます。勿論「もはや神などいない」と言って呪う人もいます。

 

敬虔な信仰とはどちらのグループに属するのでしょうか。

 

エホバの証人の経済状態や置かれた境遇を見て嘲笑し、蔑む人たちが大勢います。そしてその生きざまを侮辱し、今の自分の方がはるかに幸福だと主張します。

 

でも本当にそうなのでしょうか。かつての仲間を侮辱し、蔑み、せせら笑う人たちは幸福なのでしょうか。自分より恵まれない人たちに一片の慈悲の心も持たず、侮辱侮辱侮辱を繰り返します。その心は平安なのでしょうか。

 

多分そういう人たちには決して理解できない敬虔な思いでいる人もきっと現役エホバの証人には少なからずいると思います。

 

元エホバの証人たちが侮辱の限りを尽くしていくら訴えたところで、聖書を知らない一般の人たちはその敬虔な信仰の歩みに一目置いていることあるのです。それは映画の中で示される敬虔な信仰を抱く人たちへのリスペクトと同じです。ローマカトリックが正しいとか、ロシア正教が正しいとか、プロテスタントが正しいとかは気にはしません。

 

開拓者かつ長老であったにしても今の現役エホバの証人に「そこから出て幸福になりましょう」などという人に対して世間はむしろ蔑むでしょう。

 

エホバの証人の多くは慎み深く、信用と信頼の置ける人たちであり、礼節をわきまえ、身なりも整えた真面目な人たちであると認識し、それが敬虔な信仰のなせる業だと評価している人もいるのです。喫煙も過度の飲酒も行なわないことで一目置かれている場合もあるのです。私はそういう生活を送る現役を今なおリスペクトしています。神への信仰と感謝故のものであるならなおさらです。それは不条理な状況に置かれてもなお敬虔な信仰を保ち続けたキリスト教徒と同じだからです。

 

ですからそういう思いでいる方々が記念式を祝う姿は決して侮辱されるべきものではないと思っています。侮辱する人を哀れに思います。

 

表面的に組織と統治体のすべての命令に従いながら、仲間の信者に対して無関心であった人間が、現役エホバの証人に対し上から目線でいるのは、それこそ自らが自分と周囲の人を騙し続けた人生であり何も得るものはなかったのです。