サンデージャポンで太田光が「でも信者も守らないといけない」とう趣旨の発言をした時に、間髪入れずに「守る必要などない」と声を荒げ太田を制したデーブ・スペクターとそれに同調する同席者たちと多くの視聴者たち。
皆が寄ってたかって、統一教会信者を屠ろうとする残虐な精神を明らかにしました。まさに魔女裁判、まさに十字軍です。まあ、半分以上は自分のしていることが宗教差別であり、残虐だとは思ってもいない軽薄な思考の持ち主でしょう。
デーブのこの「守る必要がない。」というのは過激なのですが、ただこの思考は実はエホバの証人が持っている「ハルマゲドンでエホバの証人以外はすべて滅ぼされる」という信仰とあまり大差ないものなのです。エホバの証人は「自分たちは十分警告を与えたのにそれに耳を貸さなかった人間を神は守る必要がない。」と考えているからです。
デーブの思考はまず「統一教会信者は反社会的である」という決めつけから生じているものです。しかしどう見ても統一教会信者が暴力団のような反社会性を有しているとは思えません。というのも本当に反社会的であるなら、多くの人は「触らぬ神に祟りなし」ということであまり批判しないからです。お礼参りが怖いからです。
だからこそメディアでコメンテイターたちも平気で信者を叩けるのです。これは相手が弱いと思っている何よりの証拠です。要するに弱い者いじめなのです。
さて狩りに反社会的組織であるにせよ、デーブの言うように「守る必要はない」ということになると暴力団組織に構成員がどれだけ危機に瀕しても「守る必要がない」ということも許されることになります。勿論世の中にはそう考える人も大勢いるでしょうが、しかしそれをテレビで名のある人間が声を荒げて行っていいものかどうか、公徳心が疑われます。
もしエホバの証人がテレビで「聖書の言葉を聞かない人は守る必要はない」と発言すれば、それこそエホバの証人に対する批判は噴火します。ところがデーブの言葉には批判どころか称賛する人すらいます。
如何に大衆というものがアホでマヌケでバカでどうしようもないことがわかりますね。そういうテレビの姿勢があるので、たとえばカルト信者が「テレビはサタンだ」と信じる根拠をテレビが与えていることになります。デーブの言葉はまさに「サタン」的ですからね。
デーブ・スペクターは宗教弾圧者です。中世の暗黒のカトリック司祭と同じ精神態度です。暗黒の司祭たちは魔女狩りを異端審問をして数多くの善良な人間の命を奪ったのです。そして多くのコメンテイターはそのギャラリーなのです。
1692年アメリカで起こったセイラム魔女裁判は対立する政治勢力の排除という要素もあったと言われています。面白いですね。勝共連合を潰そうとする鈴木エイト、有田ヨシフ、紀藤弁護士の共産党ズブズブ三羽烏や左翼系弁護士たちと同じじゃないですか(笑)
政治的意図はないにしても、カルトというだけで侮蔑の言葉を投げかける元エホバの証人たちの精神も同じですね。
セイラム魔女裁判を描いた絵を拝借。今の統一教会やカルト宗教信者に対する構図です。
