「体罰をした親を残念に思う」というものみの塔日本支部広報の言葉は、事実上体罰を全否定しました。
しかし聖書には「懲らしめの鞭」という言葉があるように、体罰そのものを否定していません。むしろ明確に肯定しています。
問題は何が原因で体罰をしたか、どれほどの頻度でどれほどの量であるかなのです。
そういう聖書の言葉そのものを否定した広報は、まさに背教そのものなのです。「神の教えに背いた」のです。
背教の罪、虚偽の罪を犯した彼らはまさに排斥に該当します。それ故に彼らを完全忌避することはものみの塔的に言えば理にかなっています。
一方学校の行事などへの不参加を「異教徒の習慣に基づく祝日は参加しないように聖書が教えている。」と言っていますが、誕生日に関して言えば、そのような祝日に参加しないでおきなさいと明確に禁止していません。
あくまでも異教徒が行なっていたが、クリスチャンは行わなかったという根拠が脆弱なものです。さらにナアマンは異教徒の習慣に従った行事に参加する際に神に祈りを求め、許しを請うことで対処出来ました。ですから「異教徒の習慣に基づく祝日は参加しないように聖書が教えている。」という言葉には応用や幅を持たせなければなりません。
またパウロは「偶像に捧げられたものを食べること」についてそれは良心の問題だと言いました。裏を返せば、1世紀のクリスチャンもそういう状況に面したときに、その行事に参加した可能性もあるのです。パウロは異邦人の使徒でしたが、アテネでの証言を見ても、異教の行事に由来することを禁止はしませんでした。
また起源にこだわるならエホバの証人はネクタイをすべきではないのです。またマツダのクルマのロゴはMAZDAと表記されますが、それは異教の神であるアフラマズダに起因するものです。もしエホバの証人でマツダのクルマに乗っている人は排斥にするべきです。
そんなことよりも「ウソをついてはいけない」の方が明確な律法です。その違反はエホバの憎まれるものです。聖書中に誕生日を祝ったからと言ってエホバに憎まれた記述はありません。でもウソは憎まれるのです。
聖書に明確に書いている戒律を無視し、聖書の中に明確に規定されていないことをあたかも明確に規定されているかのようにするのは非常にあくどい知恵であり、この度の広報の言葉はそういうものみの塔の体質を実に明確に集約したものです。
広報と乳井健司は完全忌避しなければならない対象です。