「疑わしきは罰せず」の原則は進化論では通用しない―進化論を信じるのは冤罪を認めるようなもの | 世の中とかなんやかんやに対する感想

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できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

ニュース報道などでしばしば「え?」と思うのは、起訴された被告に無罪の判決が下るときです。

 

「被告を有罪とするには合理的な疑いがある」という言葉は、いくら状況証拠がそろっていても無罪になるときに判事が使う表現です。

 

なぜそうなのかというと、冤罪を防ぐためのものです。

 

科学でもこれは適用されます。STAP細胞を発見したということで一躍有名になった小保方晴子ですが、その論文にはねつ造があったり、また科学だとみなされるために必要な不可欠な「再現可能」という事例が報告されなかったからです。STAP細胞の存在は「合理的疑い」があるので、ないものともみなされました。

 

ところがこの理論が進化論では通用しないのです。進化論を擁護する重要な「証拠」である化石なるものは、しばしばねつ造されました。そして進化の過程を実験によって再現することはできません。せいぜい実験室でアミノ酸が生成されたという事くらいですが、そもそもそういう実験も「人工的」なものですし、生命の誕生まで再現できないのです。

 

従って進化論というのは「合理的疑い」があるのにもかかわらず、それを「科学的真理」だというのは文系理系の両方の原則から言って明らかに矛盾しているのです。

 

そしてその合理的疑いがある似非科学の進化論を日本では学校で教えます。その結果大半の生徒はそれを受け入れるのです。

 

「学校で教えられることはすべて正しい。というのは間違っている」と、ノーベル賞受賞者の本庶教授は言いましたが、私から言わせれば進化論もそのひとつです。

 

この「誰彼が言うことはすべて正しい。」と思うのは、カルトに翻弄される全肯定&全否定思考の持ち主でかなり危なっかしいですね。

 

「文鮮明の言うことはすべて正しい。」「統治体の言うことはすべて正しい。」「池田大作の言うことはすべて正しい。」などなどは「紀藤弁護士の言うことはすべて正しい。」と通じるところがあります。そうなると排他的になります。

 

「進化論を唱える科学者の言うことはすべて正しい。」というのは進化教と言っていいでしょう。進化論を最初に唱えたダーウィンの理論は後にいろいろ修正されていますが、それでも進化論者は進化論を頑として信じ込んでいるので、それを「間違い」だとは宣言しません。進化論を提唱したダーウィンはイギリスでは国葬にされたくらいです。進化教の教祖はダーウィンです。

 

「キリンの首が長くなった理由」は諸説ありますが、いずれも後付けの理由です。まるでタッキングによって真理から徐々にそれていく統治体のようです。それでも信じる人は信じるのです。進化論を信じる人たちは、もはや科学的思考を捨てたようなものでSTAP細胞の存在を信じるようなものです。

 

進化論は法律的には冤罪です。