キリストの贖いを歪んだ心が歪んだ表情と歪んだ言葉で無に帰せしめるアガペ愛を持たないサイコパス度 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

郵便ポストにエホバの証人の地区大会への招待状が入っていましたのでブロードキャスティングを見ました。すると統治体成員スティーブンレットが大会のプログラムを紹介していました。この中でレットが実はキリストの贖いの意義を理解せず、不信仰ぶりを披露しましたのでその点を指摘します。

 

大会の公開講演の紹介の際にスティーブン・レットは次のように言いました。

 

レットの認識のどこが間違っているかお判りでしょうか。キリストの贖いの犠牲はそれまで敵対関係にあった神と人類との和解をもたらすという意義があったため、すでに「生まれた時から不完全とは言え神との敵対関係にあるわけではないのです。しかし彼は「人間は生まれた時から神の敵」だと断じました。

 

レットはパウロの言葉の意味を理解していないようです。

敵だった時に神の子の死によって神と和解したのですから,まして和解した今,神の子の命によって救われるはずなのです。」(ローマ5:10)

 

従ってレットはキリストの犠牲を正しく認識しておらず、まるでキリストの犠牲がなんの効力もないかのように、聴衆を「脅し」て、犠牲に対する感謝の欠如を示しました。普段から統治体がキリストを軽んじている精神がこのような形で漏れたのです。

 

以前に読者からの質問で「罪に対する報いが死であるならば、一度死んだ人が奇跡によって復活した場合、どうしてその人がまた死ぬのか。すでに罪のみそぎは澄んだのではないか」という趣旨の質問がありました。組織の答えは「復活しても不完全さという特質は変わらず、復活後に再び罪を犯すのでその報いとして死ぬのです。」というものでした。この回答は言い換えれば「復活した直後は罪はないので神の敵ではない」ということになります。

 

そうであれば、生まれたばかりの赤ちゃんもまだ罪を犯していないので「神の敵ではない」ということになるので、「まるで天使のようだ」という表現は全くふさわしい表現です。

 

この聖句については、エホバの証人ではない聖書研究者たちが注解しています。私もこれと同意見です。

 

エホバの証人もここまでは書いていませんが、この聖句についての過去記事で強調しているのは神の愛です。

 

ところがレットの使った言葉はこれです。

 

(歪んだ口元ですね。でもここで笑顔?なのか)

 

 

神の愛から目をそらそうとする、歪んだ言葉です。アガペ愛を持つ人間は思いつかないでしょう、この言葉は。アガペ愛を持たぬ人間はサイコパスと言ってよく、そういう人間がカルト宗教の絶対的権力を握ったときに破壊的カルトになるのです。

 

これこそが多くのエホバの証人の子供たちが「脅されていた」エホバに対するイメージなのです。いくら「聖書の神は愛がある」と私が力説したところで、レットのこの醜い表情から出される忌むべき言葉まるで神が私たちを憎んでいるかのような印象を与えるのです。聖書の言葉をこのような歪んだ適用をするのは、レットの心が歪んでいるからでしょう。光の屈折のように「霊的光」を屈折させ、歪んだ口元の表情で歪んだ言葉を使うのは心が歪んでいるからです。すべて心にあるものが口から出るのです。

 

さらに言うとこのレットの言葉は彼がどういう感情の持ち主かを示しています。生まれたばかりの赤ちゃんを「神の敵」と表現するのが正しいとするということは、「霊的に不完全」であることを神は敵視するということになります。「霊的」にどうたらこうたら言うのは目に見えないものです。しかしこういうものの考え方は例えば目に見える仕方で人間の不完全さが身体上の障害として現れた時に、それを見て「敵視」する精神態度だと言えるでしょう。回りくどい言い方になりましたが、つまりレットは、そういう人たちを神は敵視していると言っているも同然なのです。実際はレット自身がそういう障害を抱えた人間を「敵視」しているわけで、そこに憐れみを感じないのです。障碍者に対して憐みを感じないゆえにこそ、不完全な人間として生まれた赤ちゃんを「神の敵」と呼んで憚らないのです。「可愛いわね、神の敵だけど」などという、普通の人間は思いつかないセリフを平気で口にするのです。このような人物に自分の生まれたての赤ん坊を抱いてもらおうとするバカがどこにいるでしょうか。見た目にはかわいがってくれても、その様子は本心ではないのです。

 

とにかく「ペットの糞」「マフィア」「麻薬常用者」「テロリスト」「スカンク」「下着一枚」などなどスティーブン・レットの下品で野卑な言葉は衝撃的であり過激であり、怪異な表情と相まって、その人品骨柄の卑しさを如実に物語っています。そうなるのもキリストに見倣おうとせず、同じ憐みを抱いていないからです。不信仰がそうさせるのです。

 

キリストの友、神の友ならばこのような言葉は絶対に使いません。キリストは「幼子のようになりなさい」と言われました。それは「神の敵となりなさい」と言われたのでしょうか。

 

人の住む全地で「神を中傷する者」と言っていいでしょう。

 

レットが「選民思想」を持っているのは明らかですが、そのような態度を育んだのは、例えば日本支部のように彼を高める人間たちがいるからです。

 

ヤコブ4:6では「神は傲慢なものに敵対し」とあります。真の神の敵は「生まれたばかりの赤ちゃん」ではなく、傲慢で不遜な人間なのです。神は不完全である人間を神の敵とはみなしておらず、むしろ傲慢な人間を敵とみなしておられるということを聖書は述べていますレットは「敵の攻撃はますます激しくなるばかりだ」と言っていましたが、ますます激しくなるのは統治体が神の敵だからでしょう。

 

暴対法が制定されて反社会的組織の人たちは「俺たちに対する警察の攻撃は激しくなった」と言っても、それは仕方がないと多くの人は思うでしょう。統治体が激しい攻撃にさらされていると言うことが、サタンの攻撃の直結するわけではないのです。統治体のしていることがでたらめで、しかもそれを隠蔽しごまかすならば「攻撃はますます激しくなる」のは当然です。

 

まだ罪を犯していない赤ちゃんを見て、「可愛いわね、まるで天使のよう」というのが正しい表現で、レットの考えている「正しい」という表現は聖書的に間違っています。生まれたばかりの赤子は罪を犯しようがありませんが、十分な経験を積んだ成人が、傲慢さという自己の歴史を書き足しているならば、大罪を犯し、神の敵になるのです。やたら「エホバ、エホバ」と言っていますが、それはマタイ25章の不法を働く者の特徴でもありました。

 

ま、大会のプログラムは聞くに値しないものと言っていいでしょうね。本編がカスでも予告編は面白そうに見せるものですが、予告編がカスならば本編はもっとカスでしょう。