隅々まで行き渡る情報操作の手法―統治体の故意によるもの。 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

3月のブロードキャスティングには統治体がどのように情報操作をし、印象操作と思考誘導をしているかがよくわか好例があります。後半のところで韓国の若い男女の信者のインタビューがあります。男性信者を青字、女性信者を赤字で示しますが、特に指示語に部分に注目してみましょう。まず編集された流れです。

 

① 私が生まれたときから両親はエホバの証人です。なので小さい頃から一緒に聖書を勉強したり、集会や連動に行っています。

 

② 小さい頃から真理を学んでいたので、聖書の基準の通りに生きるのが一番だとわかっていました。父と母もクリスチャンの活動にすごく熱心だったので、当時の私は親をがっかりさせたくないという気持ちが強かったと思います。

 

③ 聖書の原則に従うのは重荷ではないですし、難しすぎることでもありません。それどころか、聖書の言う通りにすることが自分のためになります。

 

④ もしJWじゃなかったら、どんな人生になるんだろうと考えたこともあります。学校の友達と一緒にいるのがすごく楽しかったんですね。

 

⑤ 学校は楽しかったです。クラスメイトと仲良くやっていましたし、先生ともいい関係でした。とても居心地が良かったです。

 

⑥親からはいつも学校の友達と親しくしすぎないようにと言われていました。でも私は友達は真面目でいい人だと思っていました。どうしてそんなに心配するのかわかりませんでした。

 

⑦ 高校では教会に行っている人たちも多かったですし、宗教を持っている先生もたくさんいました。ある日一つの出来事がきっかけで、私がエホバの証人であることが学校中に知られました。エホバの証人に偏見を持つ人がいることはわかっていましたが、みんなの態度が急に変わってしまったのでびっくりしました。

 

⑧ 学校の友達ともっと多くの時間を過ごすようになりました。一緒にいればいるほど、生き方が全然違うことに気づきました。友達は週末で行った旅行のこととか、最近買ったもののことを楽しそうに話していました。でも私は集会と奉仕しか行っていません。正直、みんなのことが羨ましかったです。

 

⑨ みんなから突き放されたように感じました。聖書の原則が正しくて自分のためになることは頭ではわかっていましたが、状況が急に変わって、よくわからなくなってしまいました。

 

⑩ 友達に比べて自分はなんて地味な生活をしているんだろうと思いました。みんなと将来何をしたいって話になったとき、私は何も言えませんでした。

 

⑪ それで、どうしたらいいんだろう、何が正しいんだろうと考えました。まず親に相談しました。話をよく聞いてくれて嬉しかったです。家族の崇拝で考えようということになりました。マタイ5:11を一緒に読みました。「私のために非難され迫害され、悪意のあるうそをいろいろ言われるとき、あなたたちは幸福です。」迫害されても幸福ってどういうことだろうと思いました。今、全然幸せじゃないのに。

 

⑫ 母はマルコ8:38を読んでくれました。「私達がイエスキリストのことを恥じるなら、イエスも私達のことを恥じる」というところが、グサッときました。エホバの証人だということを恥じている自分に気づいたんです。

 

⑬ ちょうどその頃、会衆の公開講演で、マタイ19:29が読まれました。その聖句には、自分にとって大切なものであっても、エホバのため、それに別れを告げた人は皆、100倍を受けるとあります。それで、自分が大切だと思うものに別れを告げて、どんな祝福があるか見てみようと思いました。

 

⑭ その頃、両親は私が全時間奉仕をしている兄弟姉妹と交流を持てるようにしてくれました。いろいろな奉仕をしている兄弟姉妹の経験を聞くことができました。自分がどんな生き方をしたらいいのか、考えるヒントになりました。

 

⑮ そのようにして本当に良かったのは、たくさんの兄弟姉妹と知り合えたことです。自分と同じ考えや目標を持っている人がたくさんいることがわかりました。すぐに親しくなりました。

 

⑯ その後、またクラスメートと将来の話になりました。今度は自信を持って話せました。勇気を出して話せるようを助けてくれた両親にとても感謝しています。

 

⑰ エホバは本当に約束を守ってくれました。100倍を与えるという約束です。聖書の原則に従って生活すれば、エホバは必ず祝福してくれるんです。

 

⑱ 今本当に幸せです。何かを決定するときに、聖書の教えに従うようにすれば一番良い結果になると確信しています。

 

=====

さてこれを男性信者と、女性信者の言葉をそれぞれ別につなぎます。指示語に注意しましょう。

 

① 私が生まれたときから両親はエホバの証人です。なので小さい頃から一緒に聖書を勉強したり、集会や連動に行っています。

 

③ 聖書の原則に従うのは重荷ではないですし、難しすぎることでもありません。それどころか、聖書の言う通りにすることが自分のためになります。

 

⑤ 学校は楽しかったです。クラスメイトと仲良くやっていましたし、先生ともいい関係でした。とても居心地が良かったです。

 

⑦ 高校では教会に行っている人たちも多かったですし、宗教を持っている先生もたくさんいました。ある日一つの出来事がきっかけで、私がエホバの証人であることが学校中に知られました。エホバの証人に偏見を持つ人がいることはわかっていましたが、みんなの態度が急に変わってしまったのでびっくりしました。

 

⑨ みんなから突き放されたように感じました。聖書の原則が正しくて自分のためになることは頭ではわかっていましたが、状況が急に変わって、よくわからなくなってしまいました。

 

⑪ それで、どうしたらいいんだろう、何が正しいんだろうと考えました。まず親に相談しました。話をよく聞いてくれて嬉しかったです。家族の崇拝で考えようということになりました。マタイ5:11を一緒に読みました。「私のために非難され迫害され、悪意のあるうそをいろいろ言われるとき、あなたたちは幸福です。」迫害されても幸福ってどういうことだろうと思いました。今、全然幸せじゃないのに。

 

⑬ ちょうどその頃、会衆の公開講演で、マタイ19:29が読まれました。その聖句には、自分にとって大切なものであっても、エホバのため、それに別れを告げた人は皆、100倍を受けるとあります。それで、自分が大切だと思うものに別れを告げて、どんな祝福があるか見てみようと思いました。

 

⑮ そのようにして本当に良かったのは、たくさんの兄弟姉妹と知り合えたことです。自分と同じ考えや目標を持っている人がたくさんいることがわかりました。すぐに親しくなりました。
 

⑰ エホバは本当に約束を守ってくれました。100倍を与えるという約束です。聖書の原則に従って生活すれば、エホバは必ず祝福してくれるんです。

 

② 小さい頃から真理を学んでいたので、聖書の基準の通りに生きるのが一番だとわかっていました。父と母もクリスチャンの活動にすごく熱心だったので、当時の私は親をがっかりさせたくないという気持ちが強かったと思います。

 

④ もしJWじゃなかったら、どんな人生になるんだろうと考えたこともあります。学校の友達と一緒にいるのがすごく楽しかったんですね。

 

⑥ 親からはいつも学校の友達と親しくしすぎないようにと言われていました。でも私は友達は真面目でいい人だと思っていました。どうしてそんなに心配するのかわかりませんでした。

 

⑧ 学校の友達ともっと多くの時間を過ごすようになりました。一緒にいればいるほど、生き方が全然違うことに気づきました。友達は週末で行った旅行のこととか、最近買ったもののことを楽しそうに話していました。でも私は集会と奉仕しか行っていません。正直、みんなのことが羨ましかったです。

 

⑩ 友達に比べて自分はなんて地味な生活をしているんだろうと思いました。みんなと将来何をしたいって話になったとき、私は何も言えませんでした。

 

⑫ 母はマルコ8:38を読んでくれました。「私達がイエスキリストのことを恥じるなら、イエスも私達のことを恥じる」というところが、グサッときました。エホバの証人だということを恥じている自分に気づいたんです。

 

⑭ その頃、両親は私が全時間奉仕をしている兄弟姉妹と交流を持てるようにしてくれました。いろいろな奉仕をしている兄弟姉妹の経験を聞くことができました。自分がどんな生き方をしたらいいのか、考えるヒントになりました。

 

⑯ その後、またクラスメートと将来の話になりました。今度は自信を持って話せました。勇気を出して話せるようを助けてくれた両親にとても感謝しています。

 

⑱ 今本当に幸せです。何かを決定するときに、聖書の教えに従うようにすれば一番良い結果になると確信しています。

 

個人的にはまあそれぞれがそれがよいと思っているならばそれでいいのですが、問題は統治体が編集していることです。「それで」とか「そのようにして」というのは因果関係や事の成り行きにを示す接続詞ですが、二人の信者はそれぞれ別の経験を述べていますので、因果関係はないのです。また「その頃」とか「その後」というのは、時間軸が異なりますので一緒に論じることはできません。

 

「二人とも同じようなことを言っているのでまあいいじゃないか」というご意見もあろうかと思いますが、問題はそこではなく統治体が全く別々の経験を一つの経験であるかのような操作をするというところです。存在しないものを存在するかのように印象付けるところです。虚しいですね。

 

これが144000人の教理や1914年の教理、そして「重なる二つの世代」の解釈や輸血拒否、誕生日拒否、高等教育拒否などあらゆる分野に行き渡っているというところです。そしてそもそも統治体という1世紀には存在しなかったものを存在したかのように印象付けるものはその最たるものです。

 

この二人の信者はそういう印象を与えるように編集されたことをどう思っているのでしょうか。全世界で有名になれたので喜んでいるのでしょうか。だとしたらブロードキャスティングは承認欲求を駆り立てるための道具として使われていることになり非常に危険なものです。それは「エホバの証人教育省」の作成するプロパガンダに利用されているからです。