「怒りの葡萄」というタイトルですが、「「葡萄」とは、神の怒りによって踏み潰される「人間」のことを意味すると一般に解釈されている。」とWikiにあります。これは黙示録14章に基づくものです。新改訳聖書ではこうあります。
「また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。・・・ すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。」
原作を書いたスタインベックは虐げられた人たちに人権に焦点を当て、その人権を侵害する者たちに「神の怒り」が臨むという趣旨だったのかもしれません。この小説は大きな反響を呼び、舞台となったオクラホマ州では禁書扱いになったということです。
このあたりも、ものみの塔組織が「背教者の文書」とか言って「良心の危機」を禁書扱いするのと酷似しています。しかしもし神がおられるならば、統治体と日本支部には神の大きな怒りが臨み、葡萄のように踏みつぶされるでしょう。今の組織の衰退はまさに象徴的な意味で、組織として「葡萄のように踏みつぶされ始めている」と言っていいかと思います。統治体という「獣の像」を拝むものも責任を免れません。それが聖書に基づく信仰というものです。
神の「怒りの葡萄」はものみの塔組織も飲んでいるのです。かつて組織は「(神の霊感を受けていない)数多くの出版物はキリスト教世界を「サソリ」のように刺している」と言っていましたが、今統治体と日本支部を刺しているのは神の霊感を受けている聖書そのものです。神の「怒りの葡萄」酒を今は彼らが飲んでいるのです。啓示14章は今の組織に成就しているのです。