「人と人の友情を信じるように。」(ローマの休日)⇔良心に焼き印を押されたものみの塔指導部の偽善 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

「ローマの休日」は世界的に大ヒットした1953年(昭和28年)のアメリカ映画です。40歳以下の世代でこれを見た人はかなり少ないでしょうが、昨今のアメリカ映画では追随できない輝きを今なお失わない映画で、見ていない人は一度見ることをお勧めします。さんまの某食品会社のCMでもこのパロディが取り上げられているほどの不滅の映画です。

 

 

 

 

この映画秀逸なラブロマンスにとかく注目されますが「自分に縋ってくる人の信頼を裏切らないことがいかに大切なことか」という視点で見たいと思います。

 

物語は、国際親善公務でがんじがらめに縛られ、多少わがままでもはやノイローゼ寸前の某国王女アン(オードリーヘップバーン)が、夜半に警護の目をすり抜け宿舎を抜け出すところから始まります。

 

わがままでわめき散らして侍医から打たれた鎮静剤が、街に出てから効き始め、意識がもうろうとしているところを新聞記者ジョー(グレゴリーペック)が発見し、自分の安アパートで一晩休ませます。翌朝目を覚ましたアンは一人でローマの街を散策しだすのですが、アンが王女であることを知ったジョーは、アンと一日ともに過ごし、普段着姿を取材してとくダネにしようと考え、友人の写真家アービングを誘いだします。もし記事にすれば5000ドルの報酬を編集長に約束させます。

 

最初は5000ドルのために、躍起になっているジョーですが、ともに過ごすうちに自由のない生活をしているアンがいかに苦しい思いをしているかを知り、一人の女性として見るようになります。ジョーの中でもはや金目当てではない感情が芽生えてきます。

 

宿舎に戻ったアンはわずか一日で凛とした王女の風格を備え、格段の成長を遂げたことを示します。一日自由に過ごすことで、王女の責任感を深く認識したようでした。

 

ジョーは次の日に編集長に記事はないと告げ、写真を持って来たアービングにも記事にしない旨を告げます。ジョーはアンとの貴重な一日を5000ドルを棒に振ってもかけがえのないものとみなしました。それをカネにすることをアンの自分への信頼を裏切るように思えたのでしょう。ただしアービングには撮った写真をどこかに売りつけるのは自由だと言いますが、ジョーの気持ちを察したアービングも同様に金にすることはしません。

 

王女が行方不明になったことを病にかかったと発表した某国は、それでもアンが記者会見をするということでその場を設けます。その記者団の中にジョーを見つけて驚き動揺を隠せません。会見では別の記者が、欧州の協力体制について王女に尋ねます。王女は「永続することを希望します。」と言った後記事タイトルにある言葉を発します。「人の人との友情を信じるように」。ジョーはその言葉に「わが社を代表してお答えします。その信頼は決して裏切られることはないでしょう。」

 

この映画を爽やかにしているのは、「自分を純粋に信頼する人の気持ちを決して裏切らず、そのためには自分の利益すら犠牲にする」というところでしょう。もしジョーが5000ドルのためにアンのプライベートな行動を記事にしていたら、ジョーのアンへの親切な行動はすべて利己的でアンを利用していたとしかみえないのです。それはその親切な行動すべてを台無しにするものなのです。

 

もちろんこれは映画ですからね。現実はそうは生きません。自分への信頼を裏切っても平気で、しかもそれを当然だとみなすのが普通です。

 

 

 

最後に、自民党の閣僚経験者はこう言う。 「本を読むと菅さんがこの記者のことを頼りにしていたのがわかりますね。信頼していたことも伝わってくる。ただ、記者というのは報じるのが仕事なのだから、仮に菅さんが出版を不満に感じているとしても、喋ってしまった菅さんが悪いと思いますよ。みんな言わないだけで、そう思っている人の方が圧倒的に多いでしょう」

 

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これが世間というものですし、これが「世」というものです。自分への信頼を裏切る点で、道義的責任や良心などは持たなくてもいいのです。ただ新聞記者というのがハイエナ根性むき出しで、やさぐれた職業意識を持っているという印象を与えますし、そういわれても仕方のないことをしています。こういう職業の人とは日常で付き合いたくないなと思いますね。犯罪被害者や自死を遂げた御遺族に「今のお気持ちは?」と聞く連中もいますしね。

 

しかし世の中には少数派かもしれませんが、自分を信頼してくれる人を裏切ることだけはしたくないという人はいます。新聞記者ジョーのような姿勢を高く評価する人もいます。

 

さて宗教組織などというのは一つ残らず、救いを求めて訪れる人のためにあるものです。その中には純粋で謙虚な思いで指導者に指針を求める人もいます。この時宗教指導者の中には、まるで詐欺師のようにその人たちを利用する人もいます。勿論個人レベルではそういう事をする人は多くいます。

 

しかし組織ぐるみでそれをするとなるとその指導者のトップに立つ人たちはもはや良心に何度も何度も焼き印を押され、その部分の神経はなくなります。

 

良心というものは神が与えた心の律法です。それは聖書にも匹敵するものです。それに焼き印を押し続けるというのは聖書を退けるのと同じであり、それこそ完全なる背教者です。教理どころではなく聖書そのものを退けるのと同じです。

 

それをしているのはものみの塔統治体と日本支部指導者層です。1世であろうが2世であろうが関係ないのです。堕落した彼らの心を聖書は養いませんでした。良心があってjこその聖書です。ジョーのような良心を彼らは持っていないのです。救いを求めて群がる人を「下」だとみなしているからです。自称A5ランクの元HLC委員がいますが、何も彼一人ではないのです。上層部はそろいもそろって自分をA5ランクだと思っているのです。

 

アンは記者会見で「どの町が一番良かったですか」という質問に対し、最初は侍従に促され「どの町もそれぞれが…」と淡々と言いかけますが、突如目を輝かせ「ローマ」と言います。「病で外に出れなかったのに?」という問いに対しても「この街は一生忘れ得ぬ思い出になるでしょう。」と答えます。

 

個人的にはこの時のヘップバーンの表情が最も気に入っています。実は「ローマの休日」でヘップバーンと言えばまずこの時のシーンが思い浮かぶのです。最初のこの映画を見たのはテレビでしたが、池田昌子のこの時の言葉に感動したのを覚えています。

 

ジョーが5000ドルのためにアンとの時間を記事にしたならば、その思い出はアンにとって楽しみではなく、むしろ後悔の時間となり、自らの恥ずべき行動を一生後悔するでしょう。ジョーが信頼を裏切らないからこそつかの間の休日が輝くのです。たとえそれが束の間のはかない時間であったとしてもです。

 

ものみの塔宗教指導者層は自分たちに縋りつく信者を金目のために利用することで、彼らの頃に深い傷を与えました。彼らの思い出をぶち壊しました。信頼を裏切るとそうなるのです。まさに偽善そのものです。

 

ただ彼らではなく純粋に神を崇拝をしてた人たちは、決してそうはならないでしょうけどね。

 

「ローマの休日」は12月31日午後0時から、NHKBSプレミアムで放送されます。