忠誠心の暴走3-厳格な戒律故の暴走と自己否定 | 世の中とかなんやかんやに対する感想

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できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

この忠誠心なるものある意味非常に厄介なものです。というのも忠誠心は純粋さとほぼ同義でどちらかと言えば美徳とされるものだからです。

 

純粋さと対極に位置にあるのが不純ですが、では何を以って不純というかと言えば、それは人間の持つ不完全さと密接に関係しているものです。

 

人間は不完全であるということにはなぜかすべての人が同意するものですが、その不完全さが現れるのは特に金銭欲、性欲、名誉欲などに起因するものであり、いずれも前面に出ると人は嫌悪感を抱きます。だからこそそれを自制するのが美徳だとみなされるのです。

 

さて、こういった「不完全さ」との闘いはいわばとどまるところを知らず、ほんの少しでも自分が何らかの欲望を持つとするならば、それを排除しようとする戒律を生み出します。

 

欲望の否定は結局のところ欲望を持つ人間の本性を無視したものであり、自己否定につながります。もちろん限度内で抑制しなければならない欲望があるのは事実であり、そのブレーキがなければ人間社会は成立しません。

 

ただ信仰においてこの自己否定は何といっても「神様は心の中まですべてまるっとお見通しである」という次元まで達するものですので、表面的に善を装っていても自分の心はそうでないがゆえに厳しい自己否定をしなければなりません。「女を見続けるだけで心の中で姦淫を犯したことになる」というキリストの言葉などは、99%以上の男性なら心当たりがあるもので、ある意味人間のもつ業の深さを明らかにしたものです。

 

ですからそれにつながるあらゆるものを避けるようにという戒律が生まれるのです。

 

こうしてみると1世紀のユダヤの宗教指導者たちの中にはある意味「純粋」だった人もかなりいるのではないかと思われます。だからこそ安息日におけるキリストの追随者たちを非難しました。また神の子を自称するキリストを冒とくものとみなしたのも、神は神聖で近づきがたい存在であるという意識の強さから生まれたものでしょう。

 

キリストの奇跡を見ても、「悪魔の親玉だからできる」というのも、当時はそういう事例がキリスト以外にも多くいたせいもあるかもしれません。

 

実際ステファノの殉教を主導したサウロも純粋に敬虔な思いを持っていたわけです。だからこそ復活したキリストはそういうサウロの真摯な思いを見てとり、大きな責任をゆだねたのでしょう。

 

とはいえ当時のキリストの弟子たちは改名したパウロを俄かには信じられなかったというところから見ても、サウロ時代は相当忠誠心が暴走していたのでしょうが、たぶんサウロ自身は自分が暴走しているという意識すらなかったと思われます。

 

暴走していたかどうかに気づくのは本当に難しいことです。