「もし人間を神が作ったとしたならば、神を作ったのはだれか」というのが論点のすり替えであることが理解できない人もいるでしょうから、たとえを使って説明します。
ある殺人事件が起こったとしましょう。容疑者としてAが逮捕されました。この時問題になるのはAが実際に犯行を実行したのかどうかが最初の論点であり、もし実行したならばどれほどの量刑がふさわしいかということが次の論点となります。
Aが無罪を主張したとします。そうすると警察と検察は犯行の立証をしようとします。Aが殺人をしていないならば当然量刑の審議は行われません。量刑の審議の結果が犯行の事実に影響を及ぼすことはないのです。つまりこの犯罪を認めると死刑になるので、犯罪はなかったことにしようとはならないのです。
さてここでAが実際に人を殺したとします。ところがもしそれが認定されると無期懲役か死刑になるとします。Aは普段はそれほど悪い人間ではありません。むしろ被害者の方に多大の落ち度があり、Aには世間の同情が集まります。弁護士は過失致死を主張するかもしれませんし、Aが心神耗弱、もしくは喪失であることを訴え無罪を主張したとします。あるいは情状酌量を願って減刑を望むかもしれません。
でがここでAが心神耗弱状態にあり、無罪判決を受けたとしたらAが人を殺したという事実まで否定することになるでしょうか。
なりません。これらはすべてAの犯行を認めたうえでの審議だからです。
それと同じで、人間が進化によって誕生したわけではないということと、神を作ったのは誰かという問題は全く別問題なのです。
「人間は進化によって誕生したのではない」という論はAの犯行の事実認定の議論であり、「神を作ったのは誰か。」というのは「人間は進化によってできたのではない」という論を認めたうえでの議論ですのでいわば量刑審議に匹敵するのです。「神を作ったのはだれか」の答えができないからと言って「人間が進化によってできたのではない」ということを否定できないのです。