仮説と推測と憶測と多種多様な異論に基づく進化論も真理ではない。 | 世の中とかなんやかんやに対する感想

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できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

真理が古今東西永久不変のものであるならば、当然仮説に仮説を重ね、推測と憶測が随所にはびこり、しかも多種多様な異論に基づいて構築された結論が真理などとは到底言えません。

 

ところがそのような脆弱であやふやな土台に基づいたものでも「科学だ」と言って信じる人は多いのですが、その最たるものは進化論といえるでしょう。

 

私がエホバの証人が真理を伝える組織ではないと結論を下したのとまったく同じ思考で入信時は進化論は真理ではなく、進化でなければ創造しかないと結論を下しました。

 

NHKでも生命の驚くべき造りについて述べてはいますが、ブラタモリにしても、チコちゃんに叱られるにしてもダーウィンが来たにしてもガッテンにしてもすべて進化論に基づいています。

 

ただその表現は「進化したと想像されます。」とか「そのように進化したようです。」とか「進化では○○だそうです。というのが目立ち、それらすべては想像の域を出ません。チコちゃんの「多分そうだったんだ劇場」にしても今生きている人の証言に基づき作成していますがディレクターの想像を随所に織り込み、関係者は笑いながら見ています、生き証人が生存していてもなお、「多分」ですので脚色はあるのです。ところが進化論は生き証人などいないのに「そうだった」と決めつけています。チコちゃんの「多分そうだったんだ劇場」の一言一句が実際に語られた言葉だと結論する人は皆無でしょうが、一方で進化論者の言葉はすべて正しいと信じ込むのです。この矛盾を気にならないのが、進化論の怖いところです。

 

「キリンの首が長い理由」にしても諸説あるということは、長くなった理由はどれもこれも真理ではないのですが、それでも「キリンの首が長くなったのは進化でありそれが科学的真理だ」と主張するのです。結論ありきのこじつけはまるで「神の千年王国は近づいた」の書籍で、黙示録の「七つのラッパ」が1920年代にエホバの証人が開催した「七つの大会」であるとこじつけたのとさして変わりません。それでも統治体が思慮深い奴隷級であることを信じ切っていた時にはその説明も信じたのです。結論ありきの納得でした。

 

進化論もそれと同じです。進化論という結論が先にあるので、すべての「証拠」なるものはそれを「立証」するために各自が物語を作り出しているのです。その物語にどれほど矛盾があろうとかまわないのです。なぜなら「進化した」のですから。

 

進化論者は「化石こそ進化の証拠だ」といいますが、化石の分析についてはかなり想像と憶測が入り込む現実を考慮していません。

 

福井県にある恐竜博物館はなかなか楽しめる施設ですが、そこで福井で発見された恐竜の化石が展示されています。そしてその化石からどういう恐竜であるかを推測し名前までついています。フクイティタン・ニッポネンシスという名前です。

 

 

さて画像は発見された化石に基づいて左上の恐竜を想像しているのですが、画像の右上をよく見ればわかるように発見された化石は赤い部分だけです。それ以外はすべて憶測と推測に基づく「たぶんこうだったんだろう」恐竜です。でもこれを見た人たちはそのような恐竜がいたと思い込むのです。

 

私は恐竜の存在を疑ってはいませんが、ここで言いたいのは化石の証拠なるものは、人の主観でどのようにも解釈、推測することができるのだということです。であれば、「化石が進化の証拠だ」ということを主張する人がいかに脆弱な根拠に基づいているかがお分かりになるでしょう。化石はあくまでも創造の翼を広げるロマンのネタにしかすぎず、決して真理を語るものではないのです。従って「化石は進化の証拠だ」という人は化石というものを理解せず、ただ他人が言うままに信じているにすぎません。

 

私は進化論に固執する人も、統治体が神の聖霊を受けた唯一の経路だと信じる人も同じような論理思考でいる気がします。進化教です。