歪んだ権利意識が歪みを大きくする―強い自己顕示欲が正義の暴走をさせる(犯罪心理学からの分析) | 世の中とかなんやかんやに対する感想

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できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

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ピーチ航空機でお騒がせ劇を演じた例の人。今度は飲食店で大立ち回り。

 

 

 

それについてモーニングショーでの山口真由と玉川徹の発言。

 

 

 

 

何とも身勝手な言動に、弁護士・山口真由氏は「この人の主張って、話してると頭良さそうに見えるし、法的にも自分の身体に対する権利っていう成り立ちうる議論をする。でもやっぱりそういうときに思うのは、こういうふうに自分の正義を振りかざして他人の気持ちを慮ることができない人って、どんなに頭良さそうに議論しても、結局頭悪いんだろうなっていうふうに思っちゃう」と切り捨てた。  テレビ朝日の玉川徹氏も「お店は入店を拒否できる。法律のことわかってるっていうけど、実はわかってない。拒否されたら出なきゃいけない。ところが暴れちゃうわけでしょう。ゆがんだ権利意識がどんどんゆがみを大きくしてて、そのうち反社会的な人間になっちゃうんじゃないですかね」と、さらなる問題が起きることを危惧していた。

 

 

そもそも自分のした行為を反省せずやりたい放題をし、自分の権利ばかりを主張するのは歪んだ権利意識です。そして歪んだ権利意識はますます大きくなります。玉川徹もそういう認識が反社会的人間になることを懸念しています。これに関しては私は玉川徹の懸念とまったく同じですね。

 

奥野容疑者は彼なりの理論はあるようです。灘高→東大法学部出身ということでそれなりに知性はあるようです。ただ彼の理論は、あまりにも身勝手な権利意識が歪めているようです。あの堂々とした言動は、マスクをする一般人を明らかに蔑んでいます。自分の知恵を誇っているのでしょう。連行されるときも下目遣いで周囲を睥睨していましたね。この人は傲慢さが歩いているようなものです。

 

こういう人は本当に自分のしていることが正しいと思っているのです。つまり確信犯の典型例です。ですからこの手のタイプの人が説得することは極めて困難です。それは不可能に近いのです。誰がどう見てもこの人の主張は屁理屈なのですが、屁理屈を言う人は納得しようとはしません。別の人は正義の暴走だと言っていましたが、ではここでこの人のしていることを批判するのは正義の暴走といえるでしょうか。もしそんなことを言い出せば、「人を殺してはいけない。」というならば、死刑は間違っているという論に近いですね。

 

しかし十戒の第6条でも「汝、殺すなかれ」とあるのですが、それでも古代イスラエルでは死刑制度がありました。これは矛盾することでしょうか。

 

矛盾しません。たとえばこの人の問題は周囲への迷惑を考えずに暴走するところです。マスクをするのは「お願いで義務ではない」という店側の主張を逆手にとって、それをいいことに拒否します。これはピーチ航空機でも同じ考えでした。「義務ではない、お願いだ。」というところです。しかしたとえ「お願い」でも、お願いをする方の気持ちがあるのです。それを気に留めません。この人は人の自分への「お願い」を軽んじるところがあります。その大多数の人の同意であり、常識の範囲内であってもです。自分の権利ばかりを主張し周囲への迷惑を考えないのは身勝手です。勿論、この人が「俺のしたいようにさせてくれ」「お願い」してもそれは聞き入れられないでしょう。要は周囲へ迷惑をかけているか否かということですからね

 

社会で生きるというのは周囲への配慮故に時に自分の権利の主張を差し控えることも必要なのですが、彼にそれができないのは周囲を見下しているからです。

 

奥野容疑者はこの飲食店の大暴れで器物破損は、暴行も振るっています。また大声で叫び、放り投げたマスクがカウンターの上にあった天ぷら丼もダメにしました。

 

奥野容疑者の心理を分析している人もいます。この分析は興味深いですし、おおむねその通りですが、ある重要な点を見落としています。

 

 

 

誰かが独りよがりな「正義」を語るときには、注意をする必要があります。なぜなら、ゆがんだ「正義」ほど厄介なものはないからです。これまで、戦争や虐殺などの重大な暴力は、すべて「正義」の名の下に行われてきました「正義」はときに暴走し、それに従わない相手には暴力を振るってよいという論理を伴います。

 奥野容疑者の行動を、戦争や虐殺に例えるのは行き過ぎかもしれませんが、それでも彼の繰り返される粗暴な言動を見るとき、そこに「正義」の暴走という性質が見て取れるのです。

 厚労省の官僚が大人数で送別会を開いたことが批判されたとき、彼は「厚労省の職員23人の方々は、誉められるべき「国士」でしょう!」とツイートしています。半ば冗談めかしているものの、彼は自粛要請に従わないことは「卓見」である評しています。

 このように、彼は一貫して「自分は正しい主張をしている」と思い込んでいるからこそ、その主張にはブレがありません。逆に、周囲から反論されるとますますその主張は堅固になります。

 また、彼の主張が極端になっていったのには2つの理由があります。1つは、彼は自分がインテリであり、エリートであるという自我肥大を起こしていたということです。彼は、自粛要請に従う人々を「隷従的で統治しやすい国民」「自分で物一つ考えられない従順な機械の歯車」として見下しています。自分だけが目覚めていて、人々を導く存在であるという思い上がりが見て取れます。

 本当に彼が一流の優れた人間なのであれば、何も周囲を見下す必要はなかったでしょう。しかし、自分の境遇などに対して劣等感を抱えていたのであれば、ことさらに周囲の人々を貶めるることによって、相対的にプライドを保とうとしていたのかもしれません。

 もう1つは、ピーチ事件のあと、いくつかのマスメディアが、彼をちやほやしたことが挙げられます。テレビ番組やネットメディアなどが番組に出演させたり、その主張を寄稿させたりました。そのとき、彼は明らかに有頂天でした。それまでの人生で、おそらく一番脚光を浴びたため、自分の主張の「正当性」を確信していったのだと思われます。こうして主張は極端になり、「正義」が暴走していったのです。

 今回の逮捕を受けて、彼は実刑になる可能性があるかもしれません。現在は黙秘を貫いているとも報じられていますし、裁判でも独善的な主張を繰り返し、反省の態度を示さないことが予想されます。だとすると、実刑にならない場合でも裁判は長引く可能性があります。

 1回目の逮捕によって、彼は職を失っています。また、これまでの言動から察するに、周囲に親密な友人などもいないようです。

 自業自得とはいえ、いろいろなものを失い、社会的制裁を受けた彼は、社会に対して一層敵意を持つのではないかということが危惧されます。そして、失うものがない「無敵の人」となったとき、一層過激な思想に走るのではないかという心配も出てきます。

 しかし、私はそうはならないと思っています。なぜなら、おそらく彼が社会復帰するころには、コロナ禍も一段落して、彼の「活躍の場」がなくなっているのではないかと思うからです。いわば、「マスパセ」氏の反乱は、コロナ禍が生んだ徒花のようなものなのでしょう。

 私は、裁判の過程において、彼には自分自身と真摯に向き合ってほしいと切に願っています。それは、自分の行動が引き起こした現実を受け入れるつらい作業になることは間違いありません。さらに、自分の劣等感を認めて受け入れるという苛酷な心理的作業も必要でしょう。

 しかし、それをしなければ彼の人生は行き詰ったままで、何の成長もないように思えます。逆説的ですが、自分のみじめさや弱さをを受け入れることができてはじめて、彼はその後の人生を生きる強さを持つことができるのでしょう。

 そして、排除を批判し周囲に「寛容」を求める彼は、自らも周囲の人々の主張に寛容になる必要があるでしょう。自分が「正義」だと思っていればいるほど、それを点検して逆の立場から自分を見直すことの大切さは、何度強調してもしすぎるということはありません。

 それをわれわれの側にも適用すれば、われわれ社会の側にもまた寛容さが必要です。過ちを犯した人もいずれは社会に戻る日がきます。そのとき、社会の側が彼らを差別して、排除をすれば、行き場を失った彼らはどうなるでしょうか。さらに社会を敵視して孤立を深め、最悪の場合、新たな犯罪へと至るかもしれません。

 犯罪に寛容たれと言っているのではありません。過ちを犯した人々がそれを償い、社会へ戻って来るとき、その人々へを受け入れる寛容さが求められるのです。そして、その寛容さというものは、実は社会を守る大切な態度なのです。

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原田氏は奥野容疑者の傲慢さに触れており、私もそう分析しています。氏が「犯罪心理学」という観点から論じていることを注目してください。原田氏の分析は私が普段から言っていることです。私も犯罪者の心理を分析しています。しかしながら原田氏の分析が見落としているのは、奥野容疑者が非常に強い自己顕示欲があるということです。彼は自分の名を世間に周知させたいのです。有名になることがうれしくてたまらないのです。これは田原総一郎と並んで写真を取っていることを自慢していることからもわかります。(田原は麻原彰晃を称賛したり、政府の首脳と密な関係にあることを自慢したり、また朝生の司会ぶりを見ても自己顕示欲のカタマリですので馬が合うのでしょう。田原の胡散臭さがよく出ています。)

 

奥野容疑者は「有名になりたい、目立ちたい」と思っているはずです。たとえそれが非常識なことでも同じような考えを持つシンパの中で神のような存在になりたいのです。マスク拒否をする一方で飲食店で飛沫を飛ばしまくる大騒ぎを起こしたり、どうやら消毒もしなかったようです。「俺はコロナなんか怖くない」強がることで目立ちたいのです「俺は強いんだ。どうだ凄いだろう」という虚栄が見て取れます。

 

しかし店内のビールサーバーを勝手に使用したところや、暴行や器物破損などをしましたからまともな倫理観などもちあわせていません。原田氏は「裁判の過程で自分と向き合ってほしい」と願っていますがそれは無理です。自己顕示欲が強く傲慢な人間が、裁判で自分に不利な判決が下れば、ただただ反発するだけでしょう。それで世間の耳目を詰めることができれば満足するのです。とにかくどんな形であれ「有名になり目立ちさえすれば」それで満足するのです。他の人への迷惑?「そんなのカンケエネー、そんなカンケエネー」と思っているのです。その病的なまでに強い自己顕示欲から生じる「正義の暴走」はそれを認めない人への憎しみへと転じるので生じるのです。