本当に幸福ならばこれ見よがしの幸福アピールなんかしないもんでっせ | 世の中とかなんやかんやに対する感想

世の中とかなんやかんやに対する感想

できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

基本的に言って幸福などというものは自己満足ですし、自己催眠の部分があります。

 

しかし真に幸福であるならば心は穏やかですし、いちいちだれかと比べて「私の方が幸福だ」などと優越感に浸るような真似はしないでしょう。他の人のことはどうでも良くなります。勿論人間ですからどんな立場にいても愚痴は出ます。でも愚痴を言ったからと言ってその人が不幸であると決めつけることはできません。

 

誰かと比較しての幸福アピールなどというのは、優越感と勘違いしており、その優越感は劣等感から生じるものです。

 

たとえば結婚にしても、自分の愛する人と添い遂げると他のカップルなどどうでもよくなります。他のカップルの幸福も願うようになります。

 

しかし世の中にはたとえば美人と結婚することが幸福だと思う人は、美人でない人と結婚している人を蔑みます。そして配偶者の美貌を他者への優越感に利用するような男性は実際いるのです。もし配偶者が老いにより美貌を失うと他の美女に目を向けるものです。

 

例えば特権的立場にいて幸福だったという人は、それは優越感からのものであり、特権を失うと一気に劣等感に苛まれ、不幸のどん底に突き落とされたと思うのです。

 

しかし二度と再び特権を得ることができないと思うと、今度は今の仲間との仲良しこよしアピールをして「そんな付き合いをお前たちはしたことがないあろう」というのですが、そういう優越感があったとしても、その仲間から見放されるとやはり劣等感に陥り不幸になるのです。

 

職業差別もそうです。自分が社員なので幸福だ、相手は清掃業をしているので不幸だと思うのは優越感から生じるもので、もし自分が逆の立場になると不幸だと思うのです。

 

とにかく自分が人より恵まれているという相対的価値観で幸福だと思っているのです。それは非常にもろいものです。

 

だからいつまでたっても迷っているのです。

 

愛する子供に囲まれ幸福アピールをしながら、我が子を教理故に犠牲にする親を鬼畜扱いするこの反吐が出るほどの傲慢な幸福アピールも気持ちが悪いものです。本当に思いやりのある人間は、そして今幸福であるならば、犠牲にする親に対し、思いやりのある言葉を綴るものです。しかも元長老でっせ。現役の人がこの人より不幸であるとは限りません。短い人生、その人たちはその人たちの満足のいく人生を歩んでいるのですからそれでいいのではないでしょうか。阪神大震災直後の熱い絆を今なお持って生きているのですからね。自慢アピールをしている人間が手放して、もう持てないものです。

 

1世元長老でもしきりに今の幸福アピールをしています。ご本人がそれでいならそれでいいのです。しかし組織が衰退していく様を楽しみにしているようです。伝道者の減少や王国会館の消滅などのニュースを待ちわびているようです。ご自身が長老だったのならば、王国会館がなくなることで不便を強いられる会衆の成員の事情もわかっているはずです。それでもそれを楽しみし、彼らがより一層不幸になることを舌なめずりしているように待っています。現役時代に本当に会衆の成員の幸福のためにどれほど思いを持っていたのか疑問です。そんなことでは現役時代に幸福であったとは到底思えません。長老の仕事も開拓者がこうも嫌いだったようですから、長老職も開拓者の仕事もただ何の感情もこめず流れ作業のようにしていたのでしょう。他人が不幸になるのを楽しみにしているうえでの幸福アピールってなんだかなと思いますね。

 

 「心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ。」(箴言25:20新改訳)

 

幸福アピールをして現役を蔑むこれらの元長老たちはたぶん現役時代も「神の言葉を正しく取り扱えない」人たちだったのでしょう。おそらく仲間の心に油を塗ることはできなかったのでしょう。

 

エホバの証人はみんなもっとつつましいなりに誠実に生きてますよ。あなたたちがそれを素直に見れなかっただけの話。だから不幸だったんですよ。そして今でも不幸なのです。