あおり運転になりますか?―罪に対する自覚(青字追記) | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

某俳優が交通事故を起こしました。その場から逃げ去ろうとしたこの俳優の後ろを走っていたタクシーがパッシングをして、クラクションを鳴らして追いかけました。そしてこの俳優が信号で停車したときにその前に回り動けないようにしました。

 

バッシング、クラクション、そして進路妨害による強要ーこの時このタクシーの運転手のした行為は外形的には典型的あおり運転です。この行為だけに焦点を当てれば、逮捕案件になるでしょう。この人が何もしていない人の同じような行動をとっていたならば、そうなります。しかしただそれだけに注目するのは実に愚かな思考です。

 

ではこの事故を起こした俳優が、タクシーの運転手に向かって「お前も交通違反をしているではないか。ブーメランだろ!!」と開き直って、非難するでしょうか。そのようなことをする人間を周囲の人々はどう思うでしょうか。私たちはこの時タクシーの運転手が、どういう表情で、どういう口調で説得したかはわかりません。丁寧に説諭したか、あるいは怒鳴ったかはわかりません。仮に怒鳴ったとすればその時、俳優が「エッラそうに言いやがって」と毒づいたとしたらそれは正当な怒りでしょうか。「優しく言ってくれたら従ったのに」という言い訳が通用するでしょうか。いずれにせよ、俳優は自責の念があったからこそ、現場に戻りました。

 

タクシーの運転手は別にこの俳優に恨みがあったわけではないのです。そもそも俳優だということも知らなかったでしょう。このタクシーの運転手が真っ先に考えたのは、被害者のことでした。また結果的には、途中で引き返したので若干ましです。誰も追いかけず引き返すことがなければもっと罪は重くなります。被害者も加害者も守ったことになるのです。

 

追いかけた運転手は70代だそうです。ではこのタクシー運転手は老害ですか?

https://news.yahoo.co.jp/articles/1b916771d46bbb2a2dfac2795127fe54ad5e6739

 

 

世の中には人に注意されると逆上する人間もいるのです。

https://news.yahoo.co.jp/articles/279d5a688019fa0feeb0e66230397e58fcf64ef8

 

 

仮にもしこの俳優がタクシーの運転手を非難するような真似をした場合、おそらく俳優のファンの中にはタクシーの運転手を憎み、一緒になって非難するかもしれません。この俳優のファンの中でタクシーの運転手を批判する人は、おそらく犯した事故が重大なものではなく、軽微なものだと思っているのかもしれません。

 

重大であるか、軽微であるかの違いは、法定刑で客観的に判断できます。

 

道交法では過失致死の最高刑は7年、そして保護義務違反、つまりひき逃げの最高刑は10年です。相手を死亡させることよりも、ひき逃げの方が罪は重いのです。その軽重の差は「俺はそんな風に思わない。死亡事故の方が重大ではないか。」と言えばそれが通じるというものではありません。

 

事故状況がどういうものであるかはわかりません。一般的に直進車とUターン車の信号のある交差点での衝突における過失割合は20%:80%だそうです。Uターン車が100%悪いわけではありません。オートバイがスピード違反をしていたかどうかも加味されます。交差点でのUターンですので、対向するバイクが車にUターンさせまいとして加速する場合もあります。それでも被害者の責任にするようであるならばどうでしょうか。

 

 

この俳優は以前にも事故を起こしたようですが、その時には自分から知らせたようです。したがって今回俳優がバッシングを受けているのは事故そのものではなく、その後の態度でした。事故だけならば、行政処分と刑事罰を受けるだけで済んだかもしれず、今まで蓄積したものすべてを失うこともなかったでしょう。

 

こういう常識が通用しないのがエホバの証人の関係するアメブロの世界です。

 

誰が誰を非難しているかはこの際おいておいて、それぞれが自分が今現在どの立ち位置にいるかを客観的に考えることは良いことです。

 

①俳優の立場。

②タクシーの運転手の立場。

③俳優のファンの立場。

④武田鉄矢さんのような第三者の立場。

⑤何か面白いことはないかと思っている無責任な傍観者の立場。中にはけしかける非常にたちの悪い人も含む。

 

ある人たちは自分たちは散々現役を侮辱し現役の心を傷つける言葉を何の抵抗もなく綴りながら、被害者を装います。少しでも批判されるとハチの巣をつついたがごとく過剰に反応します。まるで無謀運転で相手を傷つけながらも平気で、それを注意する人を、仲間を呼んでボコボコにするかのようです。自分たちのしていることを一向に顧みることがないのです。

 

SNSにおける実名中傷、プライバシーの暴露、盗撮による侵害、伝聞情報に基づく誹謗中傷などは今非常に問題になっているのに、そういう行為を軽微なものだと感じているからこそ、それを咎める私に対して、ブーメランだとか言い出すのです。そういう発言に野次馬のごとく群れる人たちもまたそうなのです。

 

しばしばブログで自分を排斥にした長老を極悪人であるかのように誹謗中傷する人もいますが、私たちはその現場を見ていません。一方の言い分だけしか聞いていないのです。しかし弁明をよく吟味してみると、犯したことはそれほど大きな罪ではなかったかもしれませんが、その後の態度で咎められた可能性もあります。

 

したがって話し合いの折り合いがつくかどうかは、そのような行為を軽微なものとみなすか、重大なものとみなすか、そしてその後の態度が問題です。

 


盗撮中傷は、肖像権の侵害です。「目線を入れているから問題ない。」というのもそもそも目線を入れる理由を理解していません。写真に目線を入れるのは個人が特定されないのが目的です。撮影した日付と場所が明確で、その人の宗教(これはセンシティブな情報)を明らかにしている以上個人は特定されます。

 

原爆ドームでジャンプをした女性たちの写真を本人のSNSから拝借しそのまま顔を隠さないで女帝は批判記事を挙げました。同調者も多数彼女たちの名誉を棄損しました。また「私は目線を入れているから大丈夫だ。こんな姉妹たちにはなりたくない。」風に正当化している記事も書いていました。倫理観の欠如は繰り返し同じことをするのです。

 

それでもこの人たちは自分のしていることよりもジャンピング女性たちの方が悪いと思っているのです。また別の人ですが、これは加古川の二女性を誹謗中傷した姿勢にも表れています。「同じエホバの証人として恥ずかしからやめてくれ」とか言っていましたが、自分たちはバプテスマ無効宣言を正当化しているのですから「同じエホバの証人」という資格などないのに、その矛盾には気が付かないのです。「無効請求を認めてくれないから同じエホバの証人と言っていいのだ。」というのであれば、無理難題を吹っかけてそれが聴き入れられないので、自分はそれをいいことにやりたい放題ししているだけです。離婚請求をしているときには日常でもその請求に沿った生き方をしないでいるならば偽装離婚ということになります。

 

それに同調する人たちも皆倫理観が欠如しているのです。自分たちがしていることを「悪い」と思っていないのです。自分たちのしていることを咎める人を「悪い」と思っているのです。「悪が善に、善が悪に」なっているのです。

 

ついでに言うならば、この裏表JWブロガーは、鈴木大君の父親を、子供を虐待死させた犯罪さと同列に置き「人殺し」と呼びました。私はそれを非常に強く非難しました。結果的にこのブロガーはその当該記事を消しました。私はあの記事は名誉棄損が成立する可能性は非常に高いと考えています。私の言い方は厳しかったですがこのブロガーがその罪で問われる可能性はなきに等しくなりました。結果的にこのブロガーを守ったことになることをおそらく多くの人は気づいていません。

 

おそらく私が違法行為をブログで指摘してきたことで、写真掲載などをはじめ個人情報の暴露はプライバシーの暴露に注意を払うようになった人は少なからずいることだろうと思います。それは自制心を促すもので、個人的な恨みから発出したものではないのです。しかしまあ、続けたかったならばそのまま続ければ良いのです。

 

このブロガーを擁護するDさんは「名誉棄損なんて親告罪だから、当事者でない桶が口出しするのは間違っている」というようなことを書いていました。親告罪だから、相手の知らないところで何を書いても許されるという考えそのものに、いささか倫理意識に問題があると思っています。エホバの証人の元長老と唱える人がそういうのです。どういう倫理観を持って長老をしていたのか非常に疑問です。

 

さらに例のブロガーが記事を消したときに、Dさんは「非常に残念だ」と書いていました。だったらご自身が自分のブログで、鈴木氏に対して「人殺し」と書けばよかったのです。でもそれはしていません。これはDさん自身もそれが名誉棄損になるということを自覚しているからでしょう。ということはDさんは、このブロガーに危ない橋を渡らせようとしているように見えます。

 

ある人はイケメン弁護士にネットで誹謗中傷されたから相談したという以上、ネットでの誹謗中傷が悪いことは知っていながらも、自分の好きなブロガーがアポなしで会衆の長老を訪問したときに相手長老の反応を読んで、明らかに特定できる相手を非常に侮辱的な言葉で誹謗中傷したことは気にならないようでした。そもそも自分が他の人を侮辱しているのに、それに対する抗議を「誹謗中傷された」というのが理解できません。私に対して「お前」呼ばわりもそうですが、こうなると果たして会衆内で受けた他の人の態度を「愛がない」と言っても本当は愛を受けたのにそれを踏み潰したのではないかとすら思えます。いったん自分の感情を傷つけた人間は死ぬまで許さない態度のように感じます。

 

既婚男性が独身女性に親密なメールを送り、独身女性が心を乱したとするならば如何でしょうか。

 

 

事実を知った人がその行為が由々しい事態に発展するのを懸念して、多少強い口調とはいえ、咎めた時に、咎められた人が「もっと優しくしてほしかった。」というならばどうでしょうか。それで逆恨みするとすれば、それは罪の意識がないと言われるでしょう。

 

また思いっきり相手を怒鳴りつけるのは暴力と同一視される暴行です。それを肯定するのも間違った倫理観と言えるでしょう。

 

 

さらに言いますと6年前に私の記事にDさんの実名を書き、「裁判を起こしているのは〇〇だ。この人は自分のことは棚に上げて相手の悪口ばかり言っている。」とコメントしてきた某氏がいました。私はそのコメントを気づいた直後に削除しました。私はDさんを守ったのですが、それに感謝することはありません。

 

 

こうなるとDさんが冤罪だと訴える審理委員会での出来事も、あるいは長老団は本当にDさんのそれまでの働きに対し、それを評価し、裁きもできる限り穏便に図ったけれどDさんはそれに感謝していない可能性すらあります。長老削除発表前の100分の割り当ても、割り当てを一切解消すると目立つのでなるべく傷付かないようにという配慮だったかもしれません。普通ならすべて変わります。

 

審理委員会直後に、委員の一人が「重大な悪行を犯さなくてよかったですね。奥さんに謝罪したほうがいいですよ。」と言ったと自分のブログで書いていました。こういう表現を聞いているとやはりDさんの福祉を考えているとしか思えないのです。しかし自分に示してもらった親切でも相手が自分を咎めるならば一切認めず、自分の思うようにいかないと腹を立てるということを繰り返しているのではないでしょうか?

 

なんにせよ冤罪かどうかというのを判断する際に、メール本文が非常に重大になります。しかしDさんは断固としてそれを公開することをしません。裁判の事件番号を知らさないのもそこでのやり取りでメール内容が暴露されるのを嫌がっているからではないでしょうか。Bさんがその内容を知っているのに、Dさんに不利になるので隠しているのであれば、それは問題でしょう。このメール本文内容公開にだけはお二人とも一切触れません。別に私個人にとってみればどうでもいいのですし、見たいとも思いませんが、冤罪主張したければそれは最低限するべきことです。

 

コロナ禍で非常に敏感になっている精神状態にいる今、憎しみを毎日募らせることは必ず心を蝕んでいます。それを危ぶみます。