「だったら警察に訴えれば?」(青字追記) | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

一般的に反社会的行動を継続的に行う人間は自分たちの悪事を指摘されたときにこのように言う傾向があります。こういうのを開き直りというのですが、好ましい態度であるとは考えられていません。

 

自分に対する指摘に対して反省とか自省とかなどを全くしない開き直った態度を示します。相手がそんなことをしないと思っているのでしょう。

 

そして自分たちの悪事をごまかそうとする点で、神が備え付けた心の律法である良心をかなぐり捨てた行為を続けるのです。

 

実際、高速道路のあおり運転にしても執行猶予判決が下されたように本人がとにかくその場に至って反省の弁を述べれば実刑などとというのもはなかなか下るものではありません。

 

もし逮捕起訴されていなかったならば今日もどこかでしているでしょう。

 

親告罪の場合、本人の訴えがない限り起訴はされません。痴漢行為などはそうです。では本人が訴えなければその人の犯した犯罪行為は社会的に許されるものでしょうか。

 

会社内でのセクハラ・パワハラなどは実際に報道されるのは氷山のごく一部です。時折教諭や教授がセクハラで訴えられていますが、たいていはそれまでも繰り返し行っているものです。親の虐待もまたそうです。DVもそうです。

 

犯罪者というのは何もすべての犯罪が検挙されるものとは思ってはいません。

 

では会社内でセクハラ・パワハラをされた時に、それを上司なり、加害者なりに指摘したときに、たいていそのような訴えは相手に気が付いてほしい、改善してほしいと思ってするものです。しかし相手が「だったら警察に訴えれば?」と開き直る人がいたらあなたはその人をどう思いますか?加害者は意外と罪の自覚はないのです。

 

常習的にその種の言葉を口にする人をあなたはどう思いますか?

 

こうなるとただ単に社会性を備えていないというだけではなく、もはや反社会的と言っていいでしょう。

 

また議論をするときに、事の是非を話し合うときに年齢差は全く関係はありません。しかしながら自分よりも年長者に対して侮蔑的意図を込めて「先生」と呼ぶなどの行為はその人自身の品格が問題になるのは言うまでもありません。年長者へのリスペクトをしないこと自体自らが社会性を持っていないことを自分で証明しているのです。礼儀をわきまえないというのは議論以前の問題です。社会性があるとは思えませんね。「年の差を持ち出すだなんて最終兵器だ」と言って自分のしている行為の非社会的な部分をチャラにすることなどはできないのです。それもまた自分の社会性の無さをさらになぞっているです。

 

エホバの証人の2世であれば部活などをする機会はなくてもそのあたりの認識を持っている人は実際いるのです。このことは親の教育も大いに関係しているでしょうが、成人してずいぶん時間がたつのであるならば、もはや属人性が関係します。

 

実際そういう社会性を備えないままリアルに会衆内の長老に「話し合い」をしたとしても随所にリスペクトの欠けた態度をし続けているならば、その現場を見なくてもこれでは相手にされないだろうと思われます。話し合いに対する用意ができていないのです。相手が話し合いに応じないというのは、挑戦的であったからかもしれません。しかし自分の無礼な態度を顧みることなく、相手が自分に対応をしないでいることを今度は責め立てます。こういうところは隣国の反日活動と似ていますね。

 

たとえば宝石さんの長老との話し合いでは、確かに長老に対する疑問を述べた点で、訪問した長老が問題視したかもしれませんが、途中で長老団が席を立つことなく数時間にわたって耳を傾けたという客観的事実から、相対する長老団に対しては十分な敬意を込めて語っていたことはわかります。文章を読み取るとはそういう事なのです。

 

宝石さんが部活をなさっておられたかどうかわかりませんが、たとえなさっておられなかったにせよ、社会性を十分持っておられることは明らかです。

 

私は改めるべき部分を改善し、反省と自制をすれば相手の心を開くことができるという視点で話をしているのですが、それを自分への誹謗だととらえとにかく自分を改善しようとはしないのです。こういうところは組織と似ていますね。信者の批判を誹謗だと解釈します。

 

例えば何らかのスキルを学ぼうとするときに自分を向上させるための苦言を一切受け付けない態度であるのです。スポーツでも学業でも時に厳しい指摘をされることもありますが、今自分が抱いている目標を達成するというのであればみなそれを消化していくのです。自分の言い分を組織に聞いてもらいたいと思うのであれば、そのやり方を効果的にしたいと思うはずなのに、それをしようとしないのです。

 

さて「だったら警察に訴えれば?」と言って開き直る人がいたとしても、盗撮中傷や実名中傷、脅迫とも思える嫌がらせ行為などが肖像権の侵害にあたり、マナー違反、法令違反に該当するのであるならば私が訴えるかどうかは別にして、そのような指摘をすることで、それを行う人に同調することがいかに自分の心を蝕むことであるかを読者が考えることはできると思いますね。

 

たとえば「〇〇日までに返事がなければ手紙を公開する。」というのは交換条件を提示しており、それで返事をしない組織をいかにも悪者扱いしていますが、これなどは脅迫の精神が反映しているように感じます。少なくとも印象操作はしています。返事がないのはわかりきっているのに反復しているのは単なる過失では済まないでしょう。

 

つまり警察沙汰にするかどうかが要点ではないのです。警察沙汰にしなければ、その人の反社会的行為が許されるというモノではないでしょう。あくまでも犯罪行為ですよという注意喚起をし、それを見る人たちがどう判断するかということなのです。

 

警察沙汰にしないのならば何をやっても許されるという倫理観の持ち主にごまかされてはならないということです。「警察に訴える度胸もないくせに」という倫理観の持ち主の影響を受けてよいのかどうかに注意喚起しているのです。

 

そういう人にいつまでもついて行って果たして自分にとって益になるかどうかを考える機会を提供したいと思っているのです。それではいつまでたっても組織との共依存から脱しきれないからです。外形的に集会に行かず、その活動に全く携わっていなくてもです。

 

私がものみの塔組織から逃れた人に望むのは心をより平安してほしいということですからね。

 

まあそれよりも巡回監督や伝聞情報だけで個人が特定できるような仕方で誹謗中傷するくらいならそれこそその巡回や長老相手に警察にでも訴えれば如何でしょうか。でも巡回や長老を誹謗中傷している人たちは、組織がそういうところが改善すれば王国の音信なるものが、区域の人々により効果的に伝わるので改善すればどうかという動機ではしていませんよね。

 

むしろ組織の崩壊を願っていますよね?

 

そこが私とは違うところですね。別に私はアンチ活動を否定していません。それを潰すつもりはないですね。私もアンチ活動と言えばいえるかもしれないからです。どこが違うかわかりますか?