私は議論の応酬は持論を練り上げるためにも必要なことだと思っていますし、実際そういうものです。そのためには当面自分が提示した持論に対して反論がある場合は、反論で応じるべきであり、それが正しいのか間違っていたのかについて一定の結論を出すべきだと思っています。
東京オリンピックマラソンを札幌開催にすることをIOCのごり押しで決まったことに対し賛否両論はあるとはいえ、それに対して賛成意見を述べたことが「権威の言うがままに従う。それはエホバの証人的だ。」という評価を下したのであれば世の中でそれに賛成意見を表明した人は皆そうなるのでしょうか。そこでエホバの証人であったかどうかを判断基準に入れること自体が偏見に基づく意見であることは明白です。そこで私は選手観客の健康を考慮した場合それが英断であることを論じました。
「マラソン札幌開催決定を2030年冬季五輪札幌開催の礎に」
https://ameblo.jp/1-drop-in-the-tub/entry-12541296193.html
のコメント欄をご覧ください。
この私の反論が、コメント者の怒りを買いました。「数字を挙げてうざい」風です。その後このブロガーは孤独死の老人の絵を掲げ、いかにも私がそのようになれば面白いとそれを願うような記事も書きました。そのような記事を書かなくてもたぶんは私はそうなるでしょう。その時には留飲を下げてください。
さてこのブロガーは盗撮中傷に対してそれをしたブロガーを厳しく咎めています。しかしながらこのブロガー自身は無断で他人の記事のスクショを上げたり、リブログしたりして、批判の域を超えた中傷をしています。それは心根としては同じことをしていることにならないのでしょうか。
また他人のHNをもじってからかって侮辱していますが、その行為自体はマナー違反でしょう。実際リアルでも人の名前をもじってあだ名をつけたりからかってイジメる人間はいます。それを指摘すると今度は開き直ります。「イジメちゃだめよ」と言ってご自身自ら告白しているように「イジメ」の精神を発揮していますが、それは自分がいつも批判している人たちと同じことをしているのではないでしょうか。ご自身が虐待を受けてきたことを訴えていますが、一方でイジメることはできるのです。
さらにこの方は2世たちが自分の過去の鞭経験を披露することに対して批判的です。私はむしろそれに対しては心を痛めるのですが、そのような過去の辛い経験をブログで綴ることは心を癒す点で必要なことだと思っています。私が批判しているのはその辛かった体験を、今自分がしている違法行為や常軌を逸した行為を正当化するための免罪符として使うことなのです。辛い経験をしたのにもかかわらず人として立派に生きている2世たちに対してそれは侮辱ですらあると批判しています。その様な態度を示す2世たちは削除や排斥になったのは多分にその人自身にも原因があったのではないだろうかという印象を受けます。
しかし件のブロガーは、その種の辛い経験を話すすべての2世に対して批判的です。たとえ一世でも自分が経験した苦労を綴る人に対してはバカにした物言いをします。しかしながらご自身はというと自分の辛かった過去の話をときどき語ります。その経験自体は大変お気の毒だと心の底から思います。でもその自分語りにしても、自分への同情を集め自分の言動を理解して欲しいというものであるならば、自分が批判している人たちと同じことをしていないでしょうか。
私に対して「人を逆上させる天才だ」とか「桶をひっぱたいてやりたいという人の気持ちがわかる」というのは明らかにヒステリックな言葉です。だとするとリアルライフでこの方が経験した苦難の一部は、この方自身にも原因があり、反省すべきところが多々あったのではないかと見られても仕方ないのではないでしょうか。それができればもっと穏やかに暮らしていけるのになと思います。
このブロガーについてはもうこれで終わりにしたいですね。