差別主義者の恐ろしさー心を破壊する者から「何にもまして心を守れ」(緑字追記) | 世の中とかなんやかんやに対する感想

世の中とかなんやかんやに対する感想

できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」-(箴言17:9)新改訳

 

米国での警官による黒人殺害抗議デモがどうしてこれだけ大きくなったのでしょうか。警官による黒人殺害の事件はこれまでもたびたび報道されてきました。そしてそれが大きなデモを引き起こしてきたこともたびたびあります。しかしながら今回のデモは過去のどの規模をも上回り、そして世界中でデモが発生しました。日本でも大阪でデモがありました。日本でこの種のデモは初めてでした。これまでと何が違うのでしょうか。

 

一つにはコロナストレスもあったかもしれません。デモに参加することで日ごろのうっ憤を晴らそうとした人もいたことでしょう。またトランプ大統領の差別的発言に対するマイナリティの抗議もあるでしょう。

 

しかし今回の大きな要素としてあるのは、あの動画は「殺人実況中継」だったということです。その生々しさが衝撃的だったのです。過去にも白人警官による黒人の制圧死はありましたが、今回は白人警官がサングラスを頭にかけ、ポケットに手を入れながら徐々に弱っていく被害者には目もくれませんでした。まるで人間として扱っていません。別の角度からの撮影ではほかに二人の警官が被害者の胴体を押さえつけていたのです。

 

三人の警官が寄ってたかって被害者の息の根を止めるに8分46秒かかりました。8分46秒にわたって一人の人間を殺害する一部始終を伝える映像は衝撃的でした。膝で頸部を圧迫した警官はリラックスしていたぶるようにして殺害したのです。

 

差別主義者は差別する相手を人間としてみなしておらず、だからこのような残虐なことを平気でできるのです。嗜虐性がでているのです。

 

このような差別はもちろん宗教差別でも出てきます。

 

私はものみの塔という宗教組織に対してその支配者層は、国家権力によって法的に逮捕されてほしいと強く願っています。しかしながら個々のエホバの証人に対しては普通の人間としてみなしています。普通の人間としてみなすというのは、世間のあらゆる宗教に属し、その宗教活動を熱心にしている人たちと同じように見なしています。初詣に行ったり、神社にお賽銭を投げて鈴を鳴らしたりしている人と同じ人間だとみなしています。人間である以上宗教心を持っているのはごく普通のことだからです。

 

したがって個々のエホバの証人までもいたぶりあざけるようなことを平気でする人間に対しては、ちょうどジョージフロイドを殺害した白人警官に対して世界中の人たちが抱く嫌悪感と同じレベルで嫌悪します。

 

ブログなどで遊び感覚でエホバの証人を否定する人が大勢いるのは非常に残念なことです。現役で交わりながら、組織を内部から糾弾するというのはそれはそれでその人の生き方としては容認します。しかし今なお純粋に信じていて、そして自分を仲間だと思って近づく人に対してまでも侮辱したりバカにしたりするのは少し嗜虐性を感じます。相手を裏切って平気な神経に対しては、相手を人間としてみておらず、まるで相手の「頸部を膝で押し付け」ているように見えます。しかもブログで同調コメント者とともに寄ってたかって批判するのもまた三人がかりで純粋なエホバの証人の息の根を止めようとしているように見えます。

 

とにかく相手を裏切って平気なのは相手を人間としてみておらず、相手に対するリスペクトなどみじんも感じられないのです。

 

内部にいて組織の指示なり、あるいは出版物の記事なりに対して批判するのは有意義だと思います。最近興味深かったのは些細なギャンブルならば許されるというものでした。この信ぴょう性を現時点では確かめてはいませんが、もしそうならば、それこそ黒川氏の賭けマージャンならば許されるというのと同じ感覚です。黒川氏は検事という立場上解職されましたが、エホバの証人もその宗教信条から言って些細なギャンブルだからと言って許されるべきものではないはずです。時に長老だったら無理でしょう。

 

それを許すというのであれば、統治体の倫理観は世よりも低いことになります。つまりもはや「高い道徳基準」などとは言えません。日本では賭博は禁止されていますが、公営ギャンブル及びパチンコは許されています。このようなダブルスタンダードに対して一般の人は特に問題視していませんが、そのうちその「些細なギャンブル」に公営ギャンブルまで含むと拡大解釈が可能になります。宝くじなども容認されます。庶民の「ささやかな夢」ですからね。こうなる射幸心を否定してきた組織の方針は大きくぐらつくことになるでしょう。

 

ですからこの種の情報は貴重なのですが、一方でカート奉仕をしているエホバの証人を陰から盗撮して中傷するというのは全く別次元の問題です。そのような行為に対しては上記の白人警官のように「遊び感覚」で嗜虐しているように見えます。このような真似をしている限り「元2世はくだらない奴らの集まりだ」と言われるだけでしょう。

 

このような2世たちの姿を見て非信者や外部の者はますます調子に乗り、聖書の表紙を真っ黒に塗りつぶして喜んでいるレベルの低い嫌がらせをしたり、バプテスマを「穢れた」と表現して醜いまでの宗教的偏見をあらわにする人間が出没するのです。このような人間こそ象徴的に言ってエホバの証人の息の根を止めたいと思っているのです。また元エホバの証人で「打倒」とか「倒壊」とか唱えている人間はまさにエホバの証人の息の根を止めたいという願いを表現しており、象徴的な意味であの「白人警官」と同じ精神態度です。同調コメント者はそれをはやし立てるギャラリーなのです。

 

他人の宗教信条を否定するのは、その人自身を否定するのです。それは相手の死を望むようになります。宗教差別とはそういうものなのです。宗教戦争の残虐さを思い出してください。過去「キリスト教」は一体どれほど残虐なことをしてきたかをです。

 

十字軍がイスラム教のモスクを襲撃した時に「キリスト教徒」はくるぶしまで血の海に浸かりながらイスラム教徒を殺害したのです。

 

キリスト教徒も同じです。カトリックとプロテスタント宗教戦争は残虐を極めました。双方が相手の息の根を止めたいと思ったのです。「異端を許さない」態度です。

 

実際統治体の背教者への態度はこの種の精神を示しています。象徴的な意味での「白人警官」そのものです。だからと言ってその影響を受けて私たちもそうなっていいというわけではないのです。

 

黒人デモが盛んな時に3世代にわたる黒人同士で激しい議論が行われました。そこでは暴力的デモをする黒人に対して別の黒人が言うのです。「こんなやり方では変わらない。俺たちが若い時も同じようなことはあった。でも今でも事情は全く変わらない。もっと違う方法を考えるべきだ。」というのです。そして若い黒人に「君たちの世代で変えてほしい。」と強く言うのです。私の立場はそのように説得した31歳の黒人の立場です。

https://www.youtube.com/watch?v=NyatUpn6Z9E

(全画面表示で字幕が出ます)

“I UNDERSTAND! UNDERSTAND! UNDERSTAND! ”

 

部外者も含め、エホバの証人を全否定する人間はブログで象徴的な意味でエホバの証人の血に飢えています。その様な行為を現役のエホバの証人は「迫害」とみなし、ますます信仰を強化させるでしょう。盗撮中傷する者は彼らにとってみればまさにサタンの使いです。しかも元エホバの証人がそのようなことをすれば余計に「自分はそこまで堕ちてはいけない」思うでしょう。そのような逆効果に気が付かないのは愚かでしかないのです。

 

「何にもまして自分の心を守る」(箴言4:23)というのはそのような影響を受けている自分の心をよく吟味することです。自己愛性人格障害者やサディストやサイコパスたちのように心を破壊された人間たちによって自分の心も腐らないようにしなければなりません。心は偽ります。自分の残虐行為を正当化します。陰険な心を持つ人間の影響を受けて、自分の心が陰険にならないよう、心を守ることが大切です。