「検察庁法改正案に抗議します」の動きについてもう一つ大事なことを書きます。
今回あの動きに対して世間が騒いだのは単にそのハッシュタグに同調した「数」の問題だけではありません。
芸能人や歌手、作家などなどの多数の著名人が同調したからです。これが騒ぎが大きくなった最大の原因です。
当たり前のことですが、著名人だからと言って、あるいは有名人だからと言ってその人の言うことが正しいとは限りません。近頃はスポーツ選手やお笑い芸人がコメンテイターとして意見を述べる風潮ですが、彼らにしても番組のディレクターやMCへの忖度をした上で、周囲の言葉に迎合するコメントしかしないのがほとんどです。
実際普段の生き方や発する言葉は賢明であるとは思えないことも言います。しかしながら、著名人や有名人の発する言葉が如何にも真実を語っているかのように受け止める人がいます。
いわゆる一時流行った宗教の広告塔なるものもそういう効果を狙ってその宗教組織が作り上げたものでした。
大多数の人間は目立たない人生を送っているのですが、そういう中で世間の脚光を浴びる人に対するあこがれのようなものがあり、その人たちの言葉に注目するのかもしれません。
学歴もそうなのですが、学歴偏重主義の世の中では高学歴の人も言うことはなんでも正しいと思う人もいます。しかし政治家などを見ていても同じ東大法学部を出ても所属政党によって全く違う意見を言います。中には現状を把握しないでムチャなことを言う人もいます。したがって学歴もまたその人の言うことが正しいということを担保するものではありません。
職歴もまたそうです。検察庁No2の立場にいながらも、習慣的に博打に手を出し、しかも新聞記者ととばくをするなんて、全く危機管理ができていませんし、そもそもその倫理観に問題があります。ですから職歴がその人のやっていることが正しいという担保にはなり得ないのです。
映画監督や漫画家にしても退廃的であったり、反抗的であったりするような作品を作っても、いったんヒットするとその人たちが「先生」と呼ばれ人生相談を請け負っているさまを見ると大衆というものがいかに人に頼り、人に左右される存在であるかをつくづく感じます。
その様な浮草みたいな大衆は、著名人、有名人、高学歴、高収入の人を讃えます。嫉妬を抱いて否定する人もいるでしょうが、ファンも大勢います。
しかしながらそういう人の言い分を指針にするならば、それで被害を被ることもあるかもしれません。
著名人、有名人の影響を受けないようにしたいものですね。自分を見失わないとはそういうことも含むのです。
しかしながらエホバの証人の中にもこの精神を宿す人が多いようです…