周囲が見えるか(青字追記) | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

私はJAFの会員ですが、定期的に送られてくるJAF Mateという雑誌があります。その中で毎号真っ先に見るのは「危険予知」というページです。

 

ドライバー視点で交通状況を示す一枚の写真が提示され、自分が次の行動をする際に、写真の中からの情報を手掛かりに何に注意をすればいいのかを答えさせるものです。

 

もう何十年にもなりますが、最初のころはほとんどわかりませんでした。写真ですので、実際に動いていないですし、局面はカンマ数秒ごとに変わるものですし、その中で動体の動きを感知してこそ注意すべきものがわかるのですから、回答を見て「そんなところなんぞ分かるものか」と思っていました。

 

しかし最近はほとんど正解を出します。そして周囲をよりよく見ることの大切さを教わります。

 

私は若いころはよく交通違反をし、免停も食らったことがあります。取り締まりの警察官は「交通違反を取り締まるのは、運転中の慎重さを喚起するもので、違反を重ねている人はいずれ大きな事故を起こすものですよ。」と言われていましたが、確かに対物事故は三度ほど起こし、旅行中にスクラップになったこともあります。そのようなときには相手のせいにしたくなる時もあります。「何でここにおったんや」という具合です。身勝手そのものです。特に相手が交通ルールを守っているのですから尚更です。

 

事故はもう何十年も起こしていません。違反切符を切られたのは5年前に15kmオーバーしてからありません。この10年でも2回ほどです。

 

周囲を見て自分の位置を知るようになります。また交通標識に機械的に従っているだけで違反も事故もそのほとんどは回避できるものです。ルールというのはその意味で重要です。

 

「おしん」の再放送をBSで見ていますが、これが放送当時はエホバの証人でも人気がありました。とにかく苦境に耐える「おしん」の姿が、迫害に耐える主婦層には大層受けました。小林綾子時代は奉公先の厳しい扱い、田中裕子時代は、特に佐賀での生活は姑の理不尽な扱いにうんざりしました。乙羽信子時代は、できの悪い嫁とそれに頭が上がらない息子仁(ひとし)の情けなさが歯がゆかったものです。

 

ずっと「おしんの視点」でみているとそうなりますし、おしんをいじめた人たちはどれもこれも敵(かたき)役でしかないのです。

 

ところが今回再放送を見ていて、少し違った感想を持っています。小林綾子時代は無断で奉公先を抜け出しました。誰にも連絡せず、脱走兵とひと冬を山の中で過ごします。子供だからわからないのかもしれないとはいえ、とにかく連絡をしないので、周囲は心配をするのです。でも周囲の感情はお構いなしです。

 

田中裕子時代も姑に対しては、表面的に従順なようで、いつも深刻な顔をし、とにかく姑に笑顔で語りかけることは全くないのです。これでは姑も不機嫌になるのは当然でしょう。口先では「はい」と言いながらを下を見たまま頭を下げるしかしません。姑にはほかに長男の息子がいるのですが、その嫁と比較しておしんのできの悪さを姑はなじります。二人目の子供を流産した時にはさすがの姑も大いに反省します。舅はおしんの理解者でしばしば姑を叱責しますがその舅に対しても心を開こうとしません。そして姑の言いなりになり、自分のことを顧みない夫に見切りをつけ連絡を取らずに佐賀を抜け出します。そして連絡を取らずにいきなり昔世話になった髪結いの師匠のところにいきなり訪れます。とにかく周囲を人々の感情を全く考えません。

 

乙羽信子時代は、事業で大きく飛躍したいと思っている息子仁に対し、昔ながらのお客さんを大切にしたいと言って衝突します。さらに仁が実業家の娘・道子と結婚した時に甘やかされた嫁に対し好ましく思わず、常に皮肉を言います。仁が道子をかばおうとすると「嫁の言いなりになって情けない。」と言いますが、それはおしんの肩を持つおしんの夫・田野倉に対し、佐賀の姑が口にした言葉です。田野倉は嫁と姑に挟まれて、相当苦労するのですが、それは仁と同じ立場です。一方おしんの養子・希望(のぞみ)が気立ての良い娘を嫁にすると、おしんは道子に向かってその嫁と比較し皮肉を言います。道子が一度連絡をしないで一日家出をしたときには「連絡をしないで家を出たんだから探す必要はない。」と腹を立てて言います。そもそも連絡を取らない人生を歩んできたのはおしん自身です。道子が家に帰って本音を言うと、おしんは「道子さんは道子さんの思うようにしてください。田野倉の家の嫁なんだから賄(まかな)いはすべて任しました。」と言いますが、後に「道子が作ったものは食べられやしない。」と陰口を言います。おしんは佐賀の姑よりももっとひどい嫁イビリをしています。

 

周囲が見えないから自分のしていることもわからないのです。「おしん視点」だけで見れば周囲はすべてろくでもない人間に見えるのでしょう。もっともバランスの見方ができるのは養女の初子です。初子は「お母さんの気持ちも、道子さんの気持ちもわかるからです。」と言います。

 

一方の肩だけを持つということは、結局肩を持った人と同じ考えを持ち、そこには公正さは見られません。それは人間関係で「事故の危険予知」ができないことを示しているのです。

 

私の言う「多角的視点」とはそういうことなのです。上から見れば丸に見えるものが横から見れば長方形に見えて初めて「円柱」だと理解出るのです。

 

「伯耆富士」と呼ばれる山陰の大山も確かにある角度から見れば円錐形の富士山に見えるのですが角度を変えると似ても似つかぬ山に見えます。そしてそれぞれの角度が見えるところに住んでいる人たちがいるのです。一方の角度に住んでいる人が善人で、一方の角度に住んでいる人が悪人であるわけはないのです。仮にもし大山が噴火したなら、火砕流が予測される地域に住んでいる人に一応の警告を鳴らす必要はあるのでしょうがそこに住む人を追い出して居場所をなくさせるような真似をするのは無慈悲な行為です。「バカな奴らだ」などというのはもってのほかです。噴火した時にどうすればよいのかを宗派算段を練っています。それがリスペクトというものです。

 

いろんな視点を持ってみる時に、強固な過激性というのは消滅していくのです。それでもそれに固執するのは、問題視されるべき原因があるのです。