「テセウスの船」とPC・HDのコピーと復活の教理 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

(あまり校正しないでアップしたので改めて修正しました。)

 

「テセウスの船」を考慮するにあたって次のような例も考えてみます。大量生産されるクルマの場合、例えば気に入ったクルマがあって、それが事故った場合、同型車を購入すると同一性は維持できるかというとそうではないのです。Wikiには「自動車の場合、日本では車台番号の打刻されたフレームが法的にはアイデンティティーを規定する。」とあるからです。まったく同型でオプションもすべて同じにしても車台番号が変われば別のものになります。

 

ではパソコンに関してはどうでしょうか。パソコンも全く同一の型はあるわけですが、あるパソコンが液晶やキーボードが壊れ使い物にならなくなったので、新しいマシーンが必要になり、全く同一の型を購入したとします。製造番号が異なるので同一性は維持できませんし、何よりも前のパソコンには長年蓄積したデータが入っていますが、新規購入したパソコンのデータは空っぽですので同一のものでないでしょう。ところでここで壊れたPCのHD(ハードディスク)データをそっくりそのまま、新規購入したPCに移し替えた場合はどうでしょうか。このとき数年間にわたって蓄積したデータも数十分でコピーできます。

 

個人的にはこれは同一視してよいと思います。

 

エホバの証人が復活を信じるのもこの考え方です。ただ単に死んだ人間を復活させても、頭脳に何もデータが入っていないのなら「別人」です。神が人間を復活させたときに、その人に関して蓄積したデータをコピーすることで、「テセウスの船=同一の人間」を作るのです。この時に、人間の全細胞が7~10年ですべて入れ替わっても同一の人間だという認識するというのもこの考え方を補強します。

 

問題は神が果たして全人類の経験したことのデータを蓄えることができるかということですが、ここで神の全知全能性が関係するのです。少なくともラザロの復活は死んで三日たって腐っているという点で脳細胞は破壊されています。とすれば記憶はなくなっています。それでもマリアは同一視できました。だから感動がありました。あの場面でラザロがマリアに向かって「ここはどこ?私は誰?あんたは誰?」どころか言葉も話せずキョロキョロしたのではなんの感動もないでしょう。あの復活劇は神なら個人のデータ復元が可能であることを示しています。

 

さらに人間の複雑な機能を知れば知るほど、そのあまりにも精巧で複雑で微細にわたる創りや、人間以外の全生物、そして天地を作る能力をお持ちであると真に信じれば神の全知全能性に対する信頼がまし加わり、復活の教理が現実味を帯びてきます。

 

〇輸血拒否と復活の教理

ここで復活の教理と輸血拒否がどう関係するかを考えます。

 

たとえば自分の持っているPCが、ウィルスに汚染され、HDのデータがなくなる危険に直面したとします。ここでAさんという人から「このソフトを使えば100%とは言わないけど、そのウィルスを駆除できますよ。」と言われたとします。Aさんのことは信用していいのかどうかわかりません。同時にBさんから「そのソフトを使えば別のウィルスにかかり、どっちみちデータは消え、パソコンも壊れますよ。私の知っている専門業者に預ければあとで新品のパソコンにそのデータを全部移して、まっさらにしてお渡しできますよ。ただししばらく時間はかかります。」と言われたとします。Bさんは信頼できるという評判の人です。でも相場と比べ破格の手数料を要求します。

 

どちらの選択をしますか?人間というのはおかしなもので「高額であればよいもの」という決めつけるところがあり、手収量が高額でも気にならないことがあります。それで壊れたPCを手にすることができるなら文句はないと感じる人もいるのです。

 

後にこのBさんがとんでもない食わせ物であるということが判明しました。嘘をつくのが得意で、その中には「Aさんの勧めるソフトを使うとパソコンが壊れる。」というものも含まれます。誰が問題なのでしょうか。仮に自分はBさんを信じたとします。それはそれで愚かかもしれませんが、自分と同じ選択をしたほかの人たちのことをなじるでしょうか。大抵は同じ被害者として集団訴訟をしたりします。集団訴訟した被害者の中に「Bさんは信頼できますよ。」という人がいたとしても、その人もBさんに騙されたわけです。もし被害者同士で分裂すれば、訴訟には負けるかもしれません。その被害者の中に違法行為をしてAさんから金を強奪するCさんがいれば訴訟団全体の主張の正当性が弱まります。

 

エホバの証人が輸血拒否をするのは、このままだと壊れてしまうPCのHDを神に預けるつもりで、いつか新品のPCをもらえると思っているようなものなのです。したがって我が子の輸血拒否をした親も決して子供を殺すつもりではなかったのです。むしろ我が子のデータがそっくり残っている新品のパソコンをもらいたいと思ったのです。その親に向かって「人殺し」と呼ぶのは見当違いな中傷であると言えるでしょう。もし「人殺し」という言葉を浴びるにふさわしいものがいるとしたらそれは統治体=Bさんです。親に向けられるものではないのです。我が子を失った親の寂しさや喪失感を踏みにじるような発言は心ないと言えます。

 

数十年にわたる一人の人間のデータのコピーも全能者なら瞬時で終わるということです。

 

創造者にその気があるかないかは別にして、創造を信じれば理論的には可能です。その創造者を信じるのは創造者に愛があるかないかというのが決め手になるわけです。

 

さて創造者に果たして愛があるのでしょうか?