国立科学博物館で今週末まで開かれています。実に興味深いものでした。最初に福沢諭吉の「窮理図解(きゅうりずかい)」が紹介されていました。福沢諭吉と言えば「学問ノススメ」が有名で「天は人の…」の一説は誰もが知っているものですが、窮理図解の次の言葉も大層刺激的です。「学問ノススメ」の根本にある思想です。
「苟( かりそめ )にも人としてこの世に生れなば、よく心を用いて、何事にも大小軽重に
福沢は物理学の重要性を説きました。そして明治維新の時期に物理・化学の知識は飛躍的に向上しました。明治維新という革命がなぜ日本史上高く評価されるものであるか。それは旧体制の破壊とそこからの自由だけではなく、進取の精神に満ちた日本国民が必死になって西洋文明に追いつこうとし、知的好奇心を最大限に引き伸ばしたからです。当時の日本人がたぐいまれな学習意欲を持っていたことがわかります。
元素記号一つをとっても「スイヘイリーベ―」などと気安く覚えられるものではなかったのですが、それを難解な漢字を当てて覚えてるのですから大変です。しかし明治の学生たちはこれをしました。
展示を見ていくと数多くの機会があるのですが、中でもしばらく見入っていたのがガラ紡と呼ばれる織機です。そして時代を追うごとに発展する自動織機です。
現代になって今から50年前の大型コンピューターの配線です。
似てるなと思ったのが、昨年の国立科学博物館で見た脳の神経細胞でした。
この配線が高度な物理学が生み出したもので、それよりはるかにコンパクトで性能が高い人間の頭脳が何の英知も反映しない時間による進化によるだなんて矛盾してるなと感じいったしだいです。
高等教育を否定するエホバの証人の統治体が、無限の可能性のある多くの信者がその能力を発揮する機会を奪ってしまいました。時間稼ぎのために休憩しながら要求時間を満たそうとしている姿はなんと無為なものなのでしょう。
高等教育は理系知識までも否定することに適用した統治体は、文明の利器を使うべきではないのです。昔は「ハルマゲドンが近いのだから大学へ行っている時間が惜しい」という現実的なのものだったのですが、今は「信仰が崩壊する可能性がある」というわけのわからぬ理由です。そんなことはないのです。理系知識はむしろ創造者の存在を確信することにさえなるのです。
今の統治体の高等教育否定の根底にある理由は、高等教育を受けて聖書ではなく統治体の矛盾に気が付かれるのを恐れているということです。また高等教育を受けて神にではなく統治体に対する依存をしなくなることを恐れているのです。
今の私たちの豊かな生活は、それが今の基準で普通のものでも、昔の人たちにとってはあこがれの夢のような生活であり、それは過去の人たちの不屈の努力があったればこそです。
技術大国日本の一翼を担う決意をこのような展覧会で抱く人もいるかもしれません。努力を払った先人たち、今なお努力している人たち、これから努力する人たちに深謝し、脱帽いたします。



