整合性のない「世代の解釈」は廃棄すべき(緑字追記) | 世の中とかなんやかんやに対する感想

世の中とかなんやかんやに対する感想

できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

凶悪犯罪をしでかした被告が、愚にもつかぬ弁明を裁判で行うのを聞くのは何とも堪えがたいものがありますが、重なる二つの世代の解釈の説明は、それに匹敵するものと言っていいでしょう

 

統治体メンバーがもはや冷静な思考力を欠き、いかに信者を詭弁で丸め込もうと必死にもがきながら、わざわざ図解までして、その整合性をしきりに訴えているのですが、一時しのぎのつじつま合わせに過ぎず、最後まで聞く気にもならないものでしょうね。

 

あと20年ハルマゲドンが来なかったらどうするつもりなんでしょうね。

 

結局このような説明をしなければならない根本原因はどこにあるかといいますと、マタイ24章の預言を現代に適用したことなのです。「二重の成就がある」というエホバの証人特有の解釈がここまでネックになったのです。

 

1世紀におけるキリストの預言は西暦33年になされ、エルサレムの滅びはその37年後の西暦70年に訪れました。これなどはまさに当時の「この世代」中に生じたことですし、だからこそ緊急感を煽るのもそれなりの意義はあったことでしょう。コリント書簡でパウロが命じた様々な命令もそういう時間軸で考慮しなければなりません。パウロの書簡とされる手紙の中で、めいっぱいわき目もそらせず信仰の歩みを叱咤激励したのもあくまでも緊急避難の意味を込めてでした。今の統治体のように「重なる二つの世代」というトンデモ造語と解釈で100年以上も終わりの日が続くというつもりでキリストが「この世代」という言葉を使ったのではないという推論のほうが論理的です。

 

災害時において、体育館での避難生活も長い時間が経過すると身体に変調をきたします。同様に長期にわたる無鉄砲な信仰生活が心に疲弊をもたらすのは当たり前のことなのです。

 

体育館で硬いマットの上でプライバシーもなく、毎日パンとおにぎりの生活で、「倦みつかれてはなりません」というだけであるならば行政責任が問われるのも当然です。無能な行政です。役立たずです。

 

統治体のしていることはまさにそうなのです。彼らはと言えば、豪華な部屋でふかふかのベッドとおいしい食事をしているようですから。統治体のメンバーの一人でも末端信者の生活をすれば1年で音を上げるでしょう。彼らは正真正銘の偽善者です。

 

それでも必死になって「重なる二つの世代」の解釈を説明する姿はたいそう滑稽で、高級スーツを着たピエロそのものであり、却ってこの男たちの信頼をなくするのです。大学であのような説明をすれば聴講生は教室を出ます。あのような説明で人を納得させることができると思うところに今の統治体の知能の程度がわかります。いうなれば「舐めている」わけですね。錬金術です。

 

統治体はマタイ24章を今日に当てはめる理由として「1世紀にすべてが成就したわけではない。」といいますが、そう思えるものも調べれば成就していたかもしれません。当時の残っている文献の絶対数の少なさからただ記録に残っていないだけかもしれません。

 

世代の解釈に対する整合性をもたらすには一つしかないのです。キリストの預言が「二重の成就」するという考えを捨てねばなりません。終末論を唱えるならば黙示録だけに焦点を当てるべきでしょう。様々なキリスト教がありますが、エホバの証人だけがマタイ24章、そしてマルコ13章、ルカ21章にこだわっています。でもやはりこれらは1世紀に当てはまると割り切ったほうがいいでしょう。テモテ第二の「終わりの日」のしるしは伝統的には西暦67年ごろに書かれたものと言われているのでそれも外さねばなりません。ただ高等批評では西暦100年ごろと言われているのでそれを採用するなら加えてもいいかもしれません。

 

もう「世代の解釈」の現代への適用にこだわればこだわるほど泥沼に入り込むだけです。