吊り橋効果により「神」に見えたのか―パラダイムシフトと帰属のエラー | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

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「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

「吊り橋理論」というものがあります。恐怖や不安感のさなかに異性に出会うと、その人に好意を持つというものです。どうやら恐怖や不安感の中で感じるドキドキ感が、恋愛の時に感じるドキドキ感と通じるところがあるというところからきています。デートの際にお化け屋敷を選ぶというのもそういう要素があるようです。吊り橋効果を試す実験では女性よりも男性のほうが効果があるようです。しかし女性の容姿が好ましいものでないときには逆効果ということらしい(Wiki)です。いずれにせよ、恐怖や不安感にある時に出会った人に対しては、好意にしても嫌悪感にしても大きくデフォルメされるようです。

 

「基本的帰属のエラー」というのがあります。「帰属意識」とは、物事の原因がどこに帰属するのか、つまり何のせいなのかを人は考えるというものです。何か問題が生じたときに、それが当人の資質によると考えるのが「内的帰属」、周囲の環境によるものだと考えるのが「外的帰属」です。人間というものは、他人の失敗は、その人のせいによるものだと考えがちで、同じような失敗を自分がしでかしたときに周囲のせいにしたがるものです。これは他人には「内的帰属」を適用し、自分には「外的帰属」を適用するものです。「いじめられるほうも悪い。」という発言は、他人に内的帰属を適用し、その発言をした人を責めるのも「内的帰属」を適用しています。

 

しかしながら他人に対して「内的帰属」を適用したとしても、諸事情を考慮した時に、やむを得ない事情があったと判断し、それまでの判断を転換するいわゆるパラダイムシフトが生じたときに「外的帰属」を適用します。

 

たとえば乱暴な運転をして交通事故を起こした人に対し、「奴は悪党だ。」と思ったとしても、その人がわが子が危篤状態で一刻も早く病院に連れていきたいという背景=外的帰属=があれば、幾分非難する気が収まるかもしれません。ところがそういう諸事情があるという事実を知っても、内的帰属のみで相手のした行動を批判するのが「帰属のエラー」です。一方自分がいかに非人道的なことをしたとしても、「それはあいつが悪いからだ」という主張を強硬に主張する「外的帰属意識」を頑として改めようとしないのもまた「帰属のエラー」です。ゆきずりレイプ犯罪者が「その時そこを歩いていたその女が悪い。」というのは外的帰属の身勝手な考えです。他者全否定&自己全肯定もそういう「帰属のエラー」をしているのです。バランス感覚とは内的帰属にしても外的帰属の配分をより客観的に判断することでしょう。

 

個々の争いは往々にして「外的帰属」意識を持つ者同士が起こすもので、その決着をつけるために第三者視点が必要になります。近頃「第三者委員会」が流行語大賞候補のようにそこかしこで唱えられています。帰属=責任所在がどこにあるのかを双方が納得するために必要なことです。また裁判というのもそういう帰属を明らかにするものですが、判決が下っても不満を持ち続けるのは強固な外的帰属意識があるのでしょう。

 

でももし内的帰属を自己に適用すればどうなるでしょうか。確かに謙虚で、内省心に富んだ人になるでしょうし、そうそう他者との争いは起こさずに済むかもしれません。一方でそれが高じるとやがて自己評価は極端に低くなる、つまり自尊心が失われていくことでしょう。こうなると強者への依存心が倍加します。

 

「クンダリニーの覚醒」と広瀬が呼ぶ、自身に生じた神秘体験は相当の恐怖感を広瀬に与えたものだと推察されます。この恐怖感というものはそれ自体観念的なものです。人に説明できるものではないのです。高所恐怖症、閉所恐怖症、先端恐怖症などはそれを感じない人にとっては理解できないものですが、恐怖を感じる人にとってはそこから逃れだしたい気持ちは外部のものにはわかりません。

 

広瀬はもともと人生の意義をずっと探し求めていました。もともと人生に対する不安や疑問を持っていました。「学生の皆さまへ」P4~5。トルストイの言葉を引用して、

「特に、 「自分の立っている地盤が滅茶々々になったよ うな気持がした。そして、立つべき何物もないような気持がした。」という表現には共 感を覚えます。それゆえに、絶対的な価値を求める心理になるのではないでしょうか。・・・そもそも、 絶対的な価値を求めることが、ないものねだりであることは半ばわかっていました。・・・理想的なのは、半導体 素子の発明のような研究だと思いました。このような仕事なら、すぐに価値がなくな ることはなく、また、それなりに世の中の役にも立つとの考えでした。それより先の ことについては、これを考えると何もできなくなるので、目をつむるしかありません でした。」と述べています。

 

いわば人生というのは確固たる意義を提供できず、非常に不安定なもので、「吊り橋」を渡っているようなものだったのでしょう。そしてそこで経験した「クンダリニーの覚醒」はいわば吊り橋が切れたようなものだったのかもしれません。その恐怖は次の言葉からもわかります。

「クンダリニーの動きが正しくないと、クモ膜下出血を起こす」、「指導者なしの覚 醒は危険だ」―オウムの本の記述は別世界の話でしたが、今や、我が身に起こりつつ ある現実でした。私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意思に 反して、クンダリニーは上昇を続けました。」。

 

P10

「クンダリニーが 覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーをコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです。」

 

切れた吊り橋に縋りつく広瀬を救ったのが麻原でした。

同P9。

「オウムの宗教的世界観が、一挙にリアリティーを帯びて感じられました。麻原をグ ル(修行を指導する師)として、解脱・悟りを目指すことが私の「生きる意味」であ ると確信しました」

 

P11

[たとえば、入信の 一週間後に、麻原の「エネルギー」を感じる体験が現われました。麻原の「エネルギ ー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきま した。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカ を吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。 その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマ を背負う」能力を有することは現実でした。そのために、麻原は「神」であり、指示は絶対だったのです。」

 

p23

「また、クンダリニーが覚醒すると、「魔境」に入りやすくなるとされていました。こ れは、「これ以上ない人生の挫折」、「生まれ変わっても続いてしまう恐ろしい修行の挫 折」とされる状態です。そして、「魔境」に落ちないためには、「正しいグル(解脱し た指導者)を持つ」、「功徳(神とグルに対する布施と奉仕)を積む」、「強い信を持つ (グルと真理を強く信じる)」、「真理の実践をする」ことが必要と説かれていました。 (麻原彰晃著『超能力秘密の開発法』、 『生死を超える』、 『マハーヤーナ・スートラ』) この類の教義はほかにも多数ありましたが、これらは信徒にとって、麻原、教団、 あるいは教義からの離脱を困難にし、そして、麻原や教義に従うよう思考や行動を統 制するものでした。このような作用は、信徒が違法行為の指示に従ったり、事件が明 らかになった後でも脱会しなかったりする原因の一つと思います。」

 

ここで注意しなければならないのはこういう広瀬の言葉を読むと、麻原に関心を持つ可能性があるということです。広瀬がだからこそそれが暗示によるものだとそのあとに注意喚起しています。

 

P12

「なお、現在は、この種の経験は暗示の機制による幻覚と理解しています。つまり、 以前に接していた「エネルギーを移入してカルマを浄化する」という教義が暗示になり、 「エネルギーを込めた」とされる石に触れたところ、教義どおり の幻覚が現れたものと思います。 (このように、回心後は幻覚的経験が極めて起きやす い状態になっていました。)」

 

P29

「現在、私はオウムの教義や麻原の神格を全否定しています。その正当性の根拠だっ た宗教的経験について、脳内神経伝達物質が活性過剰な状態で起こる幻覚的現象とし て理解しており、教義のいう意味はないと考えているからです。」

 

閑話休題

 

不安と恐怖を共有し、それを解消してくれる存在だった麻原が広瀬にとってみると「吊り橋効果」を与えたのではないでしょうか。

 

ただこの「クンダリニーの覚醒」にしてももし麻原の著書を読まなかったらそれ自体生じなかったかもしれません。あるいは広瀬はそういう覚醒をしてみたいという願望があったのかもしれません。本を読んだ時点ですでに暗示にかかっていたのかもしれません。

 

裁判で広瀬の母親が

「「息子の裁判で親として証人台に立った時、弁護士から『どうして被告人(息子)はこのような罪を犯すことになったと思いますか』と聞かれ『運が悪かったと思います』と答えてしまいました。このような答えをしてしまったことについて、被害者遺族の皆さんには大変申し訳ないと思っています。本当に運が悪かったのは被害者遺族の皆様なのですから。

それでも息子が麻原の本と出会ってさえいなければ、という思いがあって、そんな浅はかな言葉になってしまったのです。被害者遺族の皆様には重ねてお詫びしたいと思います」

と言っています。まさに痛恨ここに極まれるというところです。

 

いずれにせよ広瀬に「帰属のエラー」が生じたと思われます。麻原が「神」のように見えたのは、恐怖から自分を救ってくれるのは麻原が原因だと考えたからでしょう。麻原に師事するようになると、麻原はしきりに人間はカルマの闇に属し、修行をしないと三悪趣に陥ると説き、麻原にますます依存していきます。人間が背負うカルマの重さを意識させられ続けられ、そこに内的帰属が異常にデフォルメされていきます。

 

いったん「神」だと認めるとどういう反応が見られるでしょうか。P12です。

「「なぜあの男が」―麻原の地位が教団内で絶対だったことに対する疑問の声をよく 聞きます。その理由の一つは、私と同様に、信徒にとっては麻原を「神」とする教義 の世界観が現実だったことでしょう。・・・ 現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる体験をしているよう です。だから、麻原が法廷でどんなに見るに堪えない振る舞いをしても、彼は「神」 であり続けているのです。私もそうでしたが、信徒が帰依しているのは生身の麻原で はなく、宗教的経験によって知覚した麻原です。」

 

これと同じ現象が今のエホバの証人にも見られます。豪州王立委員会で質問者の追求にたじたじになりしどろもどろになったジェフリー・ジャクソンが証言の用意ができておらず、「世」の権威者にアドバイスすら求めたのは歴然たる事実です。

 

オーストラリア王立委員会公聴会

https://ameblo.jp/1-drop-in-the-tub/theme-10092496064.html

 

ゲリト・レッシュが法廷で「ものみの塔と私は関係ない。私は監督したこともない。」と宣誓したのも歴然たる事実です。しかしその醜態を見てもいまだ統治体に対する「帰依」をしている人が大勢います。テレビで「輸血拒否は良心の問題だ」と自らのエホバの証人としての信仰を否定した支部委員の姿も歴然たる事実です。そういうエホバの証人にとって統治体成員はもう「生身の人間」ではなく、「油注がれた思慮深い奴隷級」という繰り返し徹底した宗教的刷り込みによって確立された観念的存在、つまりほぼカニ、ではなくほぼ神になっているのです。

 

オウム信者の修行のありさまが繰り返しテレビで報道され、いかにも異様で頭がおかしくなったかのような演出がなされています。「修行するぞ」という彼らの言葉を揶揄した編集もなされていますが、信者にとってはあの修行は、カルマに押しつぶされ三悪趣に陥る恐怖心を克服するための必死の行動だったのでしょう。これはあくまでも外部の感想ですがひょっとしてあの修行を必死でする根底には自己評価の低さがあったのではないかと思いますが、それは目標とするものが「最終解脱」=「完全さ」という極めて崇高なものだったのではないでしょうか。

 

「人間だれしも不完全である。」はほとんどの人が同意するでしょうが、麻原を最終解脱者と解釈したオウム信者にとって麻原が神だというのは、麻原は「完全な人間」だと判断したといっていいでしょう。ポアを命令する権威はだれしも有するのではなく、最終解脱者=神だけができる行為です。これは「ヴァジラヤーナの救済」においてポアを肯定する説法の中で麻原自身が言っています。生殺与奪の権利を有しているのは麻原だけです。

 

エホバの証人も、統治体が背教者と定義しているのは「144000人の教理と1914年の教理に異論を唱えるもの」たちですが、いずれも聖書に対する背教ではなく、統治体の解釈に対する背教です。背教者は「完全忌避」という象徴的殺人行為ですので生殺与奪の権利を有しているのは統治体だけです。「背教者と仲良くするのも背教者」というのは、信者同士の「霊的殺人」を肯定しているのです。

 

伝統的宗教もそういう人間の不完全さ=煩悩をどうやって克服するかを説いており、滝などに打たれるいわゆる荒行も行われていますが、それはあくまでも自身の向上のためであり、他者にまで強要しません。

 

広瀬はこう結論付けています。

「ですから、宗教的経験はあくまでも〝個人的〟な真実として内界にとどめ、決して 外界に適用すべきではありません。オウムはそれを外界に適用して過ちを犯したので す。」

 

「輸血拒否」はそもそも輸血をしければならない状況をエホバの証人自ら作り出すのではありませんが、オウムの場合の「ポア」は自分たちで実行します。もしエホバの証人が信者でない他人が輸血をするのを妨害するのであるならば、狂気沙汰です。オウムのしたことはそういうことです。

 

オウムの場合、内的帰属が自身に向けられたわけですが、同時にそれはすべての人類を測る尺度になり、彼らから見れば世間の人は真っ黒けのけに見えるほど穢れたものに映ったことでしょう。やがて「真理のためには命の犠牲もいとわない。ただしその犠牲も相手を救済するためである。」となっていきます。

 

麻原が他者に強要するために使った「道具」がハルマゲドンでした。ハルマゲドンも彼らの恐怖の根拠になりました。個人的には麻原がなぜ黙示録の「ハルマゲドン」を唱えたかはわかりません。広瀬はエホバの証人とも研究したことがあるのでハルマゲドンの意味は分かっていたはずです。

 

興味深いことに広瀬自身がこのハルマゲドン教義に対しては麻原がそういう説法をしたことは書いていますが、自身がどれほど信じていたかは書いていません。

P27。

「次の内容は、麻原が信徒に出家を訴えていた昭和六十三年十一月の彼の指示です。 「・・・ (昭和)六十三年一一月五日は黙示録の予言を麻原が七つの予言その後世界戦争。二〇〇 〇年まであと一二年しかない。滅亡の日を出版しろと 一五日、オウムの方向性……旧約聖書によるとオウムの時間はあと七年、石油に なってハルマゲドン、ソ、米、日 世界大戦デザイン編集がプロパガンダマシン に完璧に成りきること(人材と経済力のためでもある)」

 

少し意味不明なところがありますが、しかしハルマゲドンが差し迫っているので人類を救済しなければならないという意識を強調することで信者を暴走させました。さらに総選挙で全員落選した時に麻原は「国家の陰謀だ」と決めつけ、社会に対する敵意をむき出しにし「オウムは反国家、反社会である。どぶ川の中で美しく咲き続ける蓮華の花のようであるためには反社会でなければならない。」といい外的帰属の精神を最高潮に表します。

 

エホバの証人の場合は「すべての人は罪人である。」という教えが、近づくハルマゲドンからの救済のためにすべての人に教えを伝えなければならないとします。オウムとの違いは、自分たちが手を直接下すのではなく神に委ねているのですが、もし統治体=「神」が手を下すように指示を出せば実行するかもしれません。その時統治体は旧約聖書のイスラエルの兵士の例を持ち出すでしょう。キリストの「剣を手にするものは剣によって滅びる。」という言葉は無視するでしょう。すでにキリストの「あなた方のハイはハイを、いいえはいいえを意味するものでなければならない。」という命令を、旧約聖書の例を持ち出して「神権的戦術」などとうそぶいて無視しているのですから。

 

エホバの証人の場合、ハルマゲドンで滅ぼされる人は永遠の滅びに値しますが、その前に亡くなる人は楽園で復活するという何とも奇妙な信仰を持っています。であるならばハルマゲドン前に死んだほうがましということになります。「ポア」もそういう考えがあるのかもしれません。何しろ「救済」ですから。

 

エホバの証人を離れたといっても「吊り橋理論」は当てはまる場合があります。SNS関連では顕著です。例えばある理知的な人がエホバの証人を批判する記事や、教理の矛盾などを書いたとします。エホバの証人であることで苦しみを経験している人は、それで「覚醒」するかもしれません。さらにそのような人がJW関連SNSの世界で「有名人」で、個人的にコンタクトをとると、その人に傾倒していきます。ところがいったんそこまで心酔すると、その人がどれほど倫理的におかしいことを言っても、もうその人を批判する精神を持ち合わせなくなる場合があります。ある種のエコーチェンバーが引き起こされますが、この集団の力については広瀬も言及しています。また別の機会に触れます。

 

いわゆる全否定論者も「帰属のエラー」をしています。たとえどれほどの事情があろうとも「乱暴な運転をする奴は悪党だ。」と他者に対する内的帰属を覆しません。

 

オウム入信時の広瀬はやはり全否定思考ではなかったかと推察します。家電製品が安く売られているのを見て人生のむなしさを感じ、クンダリニーの覚醒で麻原に傾倒し、入信後には世俗の音楽を聴くだけに気分が悪くなるといった極端な心理は「一途」すぎるところがあるように思えます。

 

パラダイムシフトが劇的に生じたのです。P25で次のようにありますが、これは少なくともエホバの証人ならば、下線部はある程度理解できるかもしれません。

「一般的な社会通念は「命は地球より重い」ということ ですが、それが「この世の一生限りの命」などの日常的経験に基づいているのと同様 です。 ところがオウムでは、日常的経験のほうは、宗教的経験によって幻影とみなされ、 無意味化されていました。そのために、宗教的経験に基づく行動規範が一般社会のも のに取って代わっていたのです。

 

 

広瀬はしかし手記で述べているようにそういう全否定思考は一般の宗教に対しては晩年には持っていなかったようです。P29、30。

 

「また、オウムの教義や麻原から心が離れた今、私は無信仰の状態にあります。しか し、宗教の価値は認めています。信仰によって人格を高められた方々が多数いらっし ゃるからです。人間には超越的存在を感じる資質が備わっているのでしょう。それは、 人類が誕生して以来、いかなることがあっても―権力から弾圧されても、科学が発達 しても―、宗教が存続していることが証明しています。その資質によって人格を高め ることは、決して否定できません。そして、超越的存在自体も、私などが否定できる ことではありません。 ・・・それを認めながらも、私は自身の宗教的経 験の意味を否定している状態です。その理由は、オウムにおける経験と決別するため に、私がこの問題に関して結論を出さなければならない立場にあるからかもしれませ ん。」

 

私たちが得られる教訓は「吊り橋効果」によって「帰属のエラー」をすることのないようにしなければならないということではないでしょうか。全否定思考はそれを妨げるのです。

 

私のこの記事にしても広瀬の次の言葉通りかもしれません。しかし立場によって学ぶべきものはあると思われます。

 

「これまでも、私は多くの方々から事件に関する質 問を受けてきました。説明責任があると思い、できる限り回答させていただきました が、私どもの愚行をお伝えすることには失敗することが多かったです。殊に宗教的経 験に係わる話になると、その方の人生経験に沿うように別の解釈をされてしまうこと が多々ありました。人は自身の経験に基づいて物事を理解するものですから、無理も ありません。」