時代が生んだ”オウム革命者たち” | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

クローズアップ現代+では司会者の武田真一アナが「彼らは生きづらいと感じていたようですが、時代が彼らをそうさせたのでしょうか、それとも彼らが特殊だったのでしょうか。」と江川紹子氏に尋ねました。すでに書いているように江川氏は「彼らは特殊な人たちではなく、また確かにバブル期には『金満社会』に対する反発から精神世界に傾倒するという傾向はあったがこれは普遍的なものだ。」という趣旨のことを述べていました。江川氏は他の場所でも「当時の時代が主要な原因ではない」と述べています。

 

私はこの江川氏の見解は正しいとは思いません。時代こそが彼らを生んだのです。時代は彼らが事件を起こした非常に大きな要因です。オウム事件起こした人たちに対する理解は、彼らが革命家たちであったという理解が最も適切です。こういった視点でコメントするジャーナリストなりが一人もいません。

 

「革命」を目指す人たちは既存体制に対する不満と、自分たちを含め抑圧されている周囲の境遇の打破であり、いうなれば幸福と自由を求める人たちの中で、優秀な頭脳を持つ人たちが集結し「人民」への愛ゆえに決起するものです。そこには革命家たちの「正義」があるがゆえに、強固な信念に基づいて決起しますから、行なった行為に対して反省することはありません。新実智光はその典型例でしょう。新実にとって悔いるというのは完全に自己崩壊であり、自己否定です。仮に刑が執行されてもその魂までも奪われないぞという決意を貫こうとしたのでしょう。オウムの教えを信じ切っていたのであれば、当然死後も命が存続すると思い、執行による死ですら、彼にとってはステージアップの踏み石でしかなかったのでしょう。さらにその正義を掲げる自分に対する承認欲求は強力です。要するにヒーロー願望があります。彼らは「志士」だったのです。

 

今年は維新150年ということですが、あの明治維新は近世における日本の革命でした。維新前夜には各藩に名だたる志士が登場しました。しかし彼ら英傑はその時代だけの「特殊な人たち」だったかというとそういうわけではないのです。維新の中心になったのはいわゆる薩長土肥と呼ばれる四藩です。まず長州藩ですが、長州では吉田松陰が松下村塾を開き、その門下生たちが維新の原動力となりました。松陰は数多くの書を読み、教育により開眼の重要性を説きました。薩摩は藩主島津斉彬がを采配をふるって西洋の知識や技術を重視し、尚古集成館は当時の最も進んだ学問や技術を教えていました。肥前佐賀藩は名君主・鍋島直正の積極的で進取の精神のもと藩校弘道館でも俊才が続出しました。土佐の坂本龍馬は勝海舟から多くの西洋文明を学びました。「教育」によって優秀な頭脳を持つ人たちが続々と輩出されたのです。

 

そしてそのような俊才たちが、日本列島全体に吹き荒れた攘夷の嵐の中で奮起したのです。中国がアヘン戦争で敗れ、欧米列強がアジア侵略を強大な軍事力で遂行していくのを知り、やがて日本が彼らによって蹂躙されるのを真に憂い、日本国民を「救済」したいと思ったのです。それには挙国一致体制が必要ですが身分差別のある幕藩体制のもとではそれができないと悟りました。それが倒幕思想につながっていくのです。当時の徳川体制では西洋に対抗できるだけの力を持つことができないと判断した人たちが、維新という革命を引き起こしました。当時の攘夷思想という時代背景がなければ志士=革命児たちは誕生しませんでした。時代が革命児たちを生んだ例で、「時代がオウム事件を招いた」ということに異議を唱える江川氏は幕末の日本を理解していません。

 

先にも書きましたが、カルトによるテロというのは交通事故に似ています。いくつかの要因が複合的に絡み合うのですが、運転に自信のあるドライバーがスピードを出せば事故が生じる可能性は飛躍的に増大します。「時代」の果たす役割を「スピード」に当てはめればいいのです。

 

彼らが特殊な人だったのかという質問に対しては、ごく普通の人であったという江川氏の言葉には同意します。

 

吉田松陰の辞世の句の一つとされている「親思う 心にまさる親心 けふのおとずれ 何ときくらん」は自分を慈しみ育ててくれた親が、自分の刑死の報告を耳にしたときに思うであろう悲しみに思いをはせるものです。松陰は親孝行で心優しき人だったのです。

 

しかしその松陰の薫陶を受けた人たちの多くが時に暴力的とも思える方法で維新を企てました。松下村塾四天王と言われた吉田稔麿は池田屋事件で闘死し、高杉晋作は奇兵隊を作って幕府軍を散々悩まし、久坂玄瑞と入江九一は禁門の変で自決しました。

 

司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」で、池田屋事件の直前に倒幕を目指す志士たちが、次のような計画を企てていることを描いています。池田屋事件風の強い日に御所付近に火を放ち、都が騒然とするどさくさに紛れて御所に押し入って帝を強奪し、それをたてて錦の御旗を掲げ一気呵成に幕府を倒すというものです。司馬遼太郎は沖田総司の口を借りて「血気盛んな人たちが毎日毎日激論を交わしていくうちに、荒唐無稽なことでも実行可能だと思うのですね。」という趣旨のことをため息をつきながら語る場面があります。どういう文言を使ったかは覚えていないのですが、だいたい趣旨はそういうものです。

 

京都の街を大火で見舞うというのは、一般の人に多大の犠牲を強いることになるのですが、“革命家”たちにとっては庶民の命を気遣うというのは小義なのです。

 

少し話がそれますが、オウム事件の実行者たちのことを「わからない」とか「真相は闇の中に」というコメンテイターたちは、いうなれば維新の志士たちも含め、あらゆる革命家を理解できないしょう。「オウム事件真相追及の会」などという代物も単なる死刑廃止論者たちの寄合であり、事件の真相を追求する気はもともとないのです。真相追及と言ってもオウム犯の言葉を聴けば聞くほど「わからない」と言えば、それだけ死刑を延長できるので自分たちの満足感を充足するだけの親睦団体です。彼らにとって事件を起こした人たちの言葉は「わからない」という言葉を出させる材料にしかすぎず、それはオウム犯たちの真摯な態度を無に帰せしめるものであり、極めて傲慢です。実際今までどれだけ真相を知ろうとして関係者に聞きまわったのでしょうか。ただ死刑廃止を唱えているだけはないでしょうか。大いに間違っていたとはいえ、真剣に生きていた彼らの悲劇を最も侮辱しているのはこういう人たちです。真相追及の会などというのは、死刑廃止のために元死刑囚たちを利用していたのです。

 

はっきり言って、刑が執行された元死刑囚たち以外にもオウム信者たちは数多くいます。事件の真相は例えば林郁夫無期懲役囚の証言や著書などからも知ることもできますし、接見もできます。その他、刑を終えた人たちからも聞くことができます「真相追及」の手段は他に無数にあるのですから、13人の死刑が執行されたがゆえに「真相は闇の中」というようなコメントする人たちは全員信頼に値する人ではないのです。彼らはただ元死刑囚たちを利用しているのです。そしてそれをもっともらしく報じるマスコミも同類です。

 

閑話休題。

 

あさま山荘事件でクライマックスを迎え、集結した新左翼の代表である連合赤軍も武装をするわけですが、それも「革命」を意図したものです。連続企業爆破事件も「革命」思想に基づいた無差別殺戮でした。

 

革命を目指す人たちは大義のためには小義を犠牲にするのを厭いません。自分たちの掲げる「偉大な目的」のためには、多少の犠牲はやむを得ないと考えます。これは革命者特有の「選民思想」の影響です。

 

オウムは連合赤軍と異なり、省庁まで設けていましたから、その「革命」は彼らから見ればかなり「現実的」であったと思われます。要するに彼ら視点では決して「荒唐無稽」ではなかったのです。組織力もありました。

 

一般的には「人を助けるのが宗教なのに、どうして人を殺すのか」と考え、連合赤軍と同一視することに抵抗があるかもしれませんが、前記事にも書きましたように実行したときの彼らの心の中にあったのは「殺人」という観念ではなく「救済」の心でした。

 

宗教であるがゆえに、連合赤軍とは違い、命を奪った人たちを「救済」するという部分までをタントラバジラヤーナの教理は担保したのです。この点が最も恐ろしいところです。この担保こそが、彼らに実行させたのです。平常心ならできないような恐ろしいことでも、宗教心があるからこそ、最後の後押しをしたのです。一線を越えさせたのは紛れもなく「ポアによる救済」という信仰でした。宗教が人を殺める点で、ブレーキになることもあれば、逆にアクセルを踏む要因にもなるということを理解できない人は、「わからない」を連発するでしょうが、それは彼らの知見と認識が低いだけです。