NHK歴史秘話ヒストリア5月30日放送「神と仏のゴチャマゼ千年 謎解き!日本の信仰心」。そこでは数多くの日本人が、お寺や神社の御朱印を求め、日本人は信仰心が深いものであるかのような外見的様子に比べ、実態は半数の人は信仰心を持っていないという矛盾が指摘されていました。
番組では「なぜ日本人は信仰を持っていないのか」ということが問いかけられていました。答えは、明治新政府が神仏分離令を出したことが原因だと分析している人がいました。神仏分離令のせいで純粋な神道、純粋な仏教こそが真の信仰であるという風潮が広まりました。それまで長い間日本は神仏習合で神も仏もごちゃまぜで、「良いかげん」の信仰を良しとしていたのに、そういう純粋なものが信仰だとなると、多くの人は腰が引けるようになった。だからそういう純粋な信仰を持つことを公言できなくなったという見方です。
私はそれは少し違うと思います。明治時代の神仏分離令が今でも影響を及ぼしているとは思えません。原因はマスコミにしろ、あるいは学校教育にしろ、周囲は進化論を全肯定し、教育の中から「神」を完全排除しているからだと思います。それでも心のどこかにある「本当は神を信じているのに」という思いとの葛藤があり、その葛藤をとりあえずのお参りで消化しているのではないかと思います。
芸能人が亡くなると、弔辞で写真に向かって思いを届けようとしている姿が映ります。弔辞の文言はまさに死者の霊があるかのように語りかけています。「いずれそっちに行く」とか「親しい人は待ってくれている。」とかいう言葉は進化論者や無神論者から見れば実にばかげているとしか思えないでしょう。
個人的にはマスコミも教育も神を否定しながらも、こと神道仏教の儀式や死者を悼む姿などはまさに目に見えぬ存在が当たり前のようにあるかのような報道をテレビでよく見かけます。
「これって創造論を完全否定しているのに偏向報道ではないのかな。」と思うわけですね。
人間の歴史を見ると大抵ほぼすべての遺跡に祭礼の跡が残されています、崇拝は人間の歴史とは切っても切れないものです。そしてその中には「創造者」に対する信仰もあるでしょう。
「進化」によってすべてを説明しようとするとどうしても飛躍した論理を展開せざるを得ないものや、進化のルールを踏み越える進化論すら出てきます。まるで「新しい光」のように次から次へと新説が誕生します。でもそれは最初の「前提」が実は根拠の不確かなあいまいなものであったことを証明しているのです。それでもそれが正しいものであるかのように訴えます。(このあたりエホバの証人の「世代の解釈」と似ています。「修正進化論」を謳うのであれば、「修正・世代の解釈」に文句を言える筋合いはないのではと思います。いつかは当たるという信仰みたいなものですから。両者とも解釈のお遊びのようです。ちなみに「今はほとんどの科学者が信じている。」というのは印象操作には役立ちますが、進化の証拠そのものではありません。)
多くの人が進化論を信じているというのは、多くの情報が進化論を前提としたものであるがゆえに、そう信じざる得ないのではないでしょうかね。統治体の出す情報だけを信じているように。
いずれ論じますが、多様性を進化の証拠だとか、化石が進化の証拠だとかいうのも「証拠」というものではなく、小説家がフィクションを作り上げるためのネタでしかないのです。