世間から見れば非常識なJWの信条も「信仰の自由」 | 世の中とかなんやかんやに対する感想

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できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

今回の土俵と女性に問題に対し、行事に立場に思いをはせる必要があるというのはたぶん私がJWだったからだと思います。もしJWでなければあるいはそういう大相撲における「宗教的要素」などくそくらえだと思ったかもしれません。そして現役JWだったならその思いはもっと強かったかもしれません。JWでなくなったからこそ、JWだった過去を振り返りながら、俯瞰できると思います。つまりJWになる前も、なった後も行司の立場に思いをはせることはできなかった可能性は高かったということです。

 

世間的に見れば「非常識」だと思われるJWの信条ですが、それでも多くの人は「宗教信条」だからということで看過している部分はあります。しかしながら命に係わる緊急事態が発生したときにそれまでの信条の是非が論議されるわけです。私は今回の大相撲の件とJWの輸血拒否問題は根幹においては同一のものだと思います。

 

どちらも「命よりも大切な神聖なもの」を守るという強い意識の表れだと思います。そしてそれは命を落としても大切なものを守ることにより満足感があると思います。

 

思うに人間というものは「命に代えても死守するものがある」時に、幸福感さえ味わうことができると思いますし、それなりに自尊心を持つことができると思います。これが時に他者には理解できない過激な行動をとらせることもあり得ます。これは特に日本人の場合、殉死を美徳したり、自害をすることを良しとする伝統的なものがあると思います。「辱められるよりは死を選ぶ」というのは第二次世界大戦末期に一億総玉砕をスローガンに戦ったことで表れているような日本人です。神風特別攻撃隊に表れる菊水作戦、沖縄戦における一般人の莫大な被害、そして昭和20年8月14~15日における軍部の最後の抵抗となった宮城(きゅうじょう)事件などはその表れです。

 

アメリカ人にとっては「降伏しない日本人」が理解できないのですが、それでも国家を守るための戦争には肯定的です。これは映画「ハクソ―リッジ」のなかで描かれています。そしてアメリカのJWは輸血拒否の教理は受け入れているわけです。そう考えると人間は教育された環境次第では、とくに宗教教育の場合は『神聖なものを守る』という思いは、信仰心にない人には決して理解できないものだということになります。「信仰の自由を認める」ということは大変奥深くまた根強く、そして無信仰者にとっては到底理解できないものかもしれません。イスラム過激派の自爆テロもそうだと思います。

 

その宗教信条の是非は別問題として、それを奉じる人の属人性まで全否定すると正しい目を培うことはできず幼児視点からの脱却は難しいものになると思います。自らが物事を冷静に見るという点でこの土俵における女人結界の出来事は考えさせてくれます。

 

自分の自尊心がその神聖なものを守るために生きていくことで培われたものであるならば、その神聖なものを穢れたものであると知った時に、命を懸けていたものを失ったことになりますので、当然自尊心もなくなることになります。この場合どうすればよいかというと、まず神聖視したものは何かということとから整理しなければならないということです。JWの場合であるならば、神なのか、聖書なのか、組織なのか。

 

たとえ組織が間違っていることを知ったとしても変わらぬものはあるはずです。そこをどう場合分けしていくかが大事なことだと思います。様々な問題を解決する点で聖書の知恵は価値あるものか、それとも役に立たないものなのか。それを考えるだけでも有意義なものだと思います。