偉人の金言と聖書 | 世の中とかなんやかんやに対する感想

世の中とかなんやかんやに対する感想

できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

さて今更言うまでもないことだが、こうやって例えば明治維新という偉業を成し遂げた英雄たちの言葉を考えると改めて思うのは聖書の言葉の偉大さである。確かに幕末~明治維新という日本人が非常に関心を持つ時代の人たちは私たちにとって身近だし、その時代の出来事とともに、ビジュアル的にその言葉の深さを考えることができるのだが、そのほとんどに対し既視感=デジャブがあるのではないかということである。


その既視感とはすなわち聖書の言葉と重なるところが非常に多いということである。これは親世代がなぜJWになったかを理解する一助になるはずだ。そういうことを考えようとしない人は親を批判する資格はないだろう。何も明治維新の英傑だけではない。過去のどの時代においても「偉人」と見なされた人たちは後世に残る考え方を示している。そして多くの真面目で真剣に人生を生きたいと思っている人はそういった言葉に心を動かされ、それを人生訓にしてきた人もいるだろう。その人たちが聖書の言葉を知ったときに、まさに今までに聞いた金言の集大成だと感じたのである。


 吉田松陰の教えは、今なお萩市の小中学校で教えられている。また薩摩では維新よりずっと前の時代、織田信長よりも少し前の世代に島津中興の祖と言われた島津忠良が作った「薩摩いろは歌」というのがずっと受け継がれた。そして薩摩における郷中(ごじゅう)教育においてはこの言葉をその土地の先輩後輩の関係の中で指針としていたのである。西郷も大久保もその教育を受けていた。


 そういった教育を受けたがゆえに心に沁み込んだ価値ある言葉は、誠実な人は決して忘れない。正しい言葉は心に残るのである。なにもそういった地域の人だけではない。過去の偉人伝やあるいは哲学などを勉強した人もいる。そのような人たちが聖書の言葉を知ったときに受けた衝撃は、たぶん幼いころから聖書の言葉を当たり前に聞いていた2世にはピンと来ないかもしれないが、初めて聖書の言葉を知った人にとっては極めて新鮮な感動があったのである。萩の人や薩摩の人が過去の偉人の言葉を大事にしてきたように、聖書の言葉を大事にしてそれを伝えてきた人もいるわけだ。そして過去の偉人の言葉を大事にするがゆえに、聖書の言葉にその価値を見出したのである。ただ単にハルマゲドンじゃの、楽園じゃのだけではない。


 ではどうしてJWの言葉に耳を傾けたのか、どうしてカトリックやプロテスタントではなかったのかという思いもあるかもしれないが、もっとも単純な答えは、カト&プロは家から家への伝道をしてこなかったからである。また進化論を受け入れる牧師もいる。はっきり言って聖書信仰者としては信仰の根拠が薄弱でまた怠慢でもあった。カトリックはキリシタン当時の宣教の熱意はもうなかったから一般の日本人に聖書に接する機会を提供したのはJW以外にいなかったのである。カト&プロが布教活動に対してJWほどの熱意を持たなかったことは、その教理の違いはともかく猛省するべきことであり、自分たちの怠慢を棚に挙げて、JWを批判することはどうかしている。JWを見てカトリックもプロテスタントも布教活動に目覚めるべきだった。


 それにカトリックでは、スポットライトで映画化されたように牧師の性的虐待はJWよりも数倍酷かったのである。オーストラリアなんてひどいものだ。JWではなくカトリック教徒になっていた子供のほうが犠牲者は多かったのである。日本でのカトリックではあまり大きな問題ではないが、それはJWでもこの種の問題はあまり大きくはない。児童性的虐待がカトリックにしてもJWにしても主に海外での問題であり、カトリックのほうがはるかに規模は大きい。その他既存キリスト教会が軍役に拒否をしなかったことも、親世代がJWになった理由がある。


 そのうえで聖書の言葉に純粋に聖書にひかれたのである。だから繰り返すが楽園の機能だけに焦点を当てて親がJWになったことを批判するのは少し本質を見失っている。だからハルマゲドンが来ないのにいつまでJWをやっているんだと思うのは分析不足なのである。別にハルマゲドンが来なくても聖書を愛するが故にJWを続けている人もいるということだ。


 かつて名指しではないが明らかに私に対して批判記事を書いた人がいる。今はブログ活動が飽きたそうなのでほとんど辞めており、もっぱらツィッター活動をしている人だ。その人はその批判の中で「もう2世たちの中には信仰をなくしている人も多いので、そんな人に聖書の言葉からあれこれ言っても無駄だ。」と言って私を批判していたが、私は聖書からではなく、過去の偉人の言葉からもわかるように一般常識に基づいても同じような倫理観で批判している。この人は私のことが大嫌いなようで、最近は記事内容ではなく「文体」を取り上げ「めんどくさい奴」という表現をしている。批判材料がなくなればそういうことまで取り上げる点で、左翼系野党の精神に似ている。左翼系野党を批判しているわりには、自分も私を批判するネタ探しでは同様のことをしている。要するに左翼野党の与党批判の精神は、安倍が嫌いだからそうしているのである。我が身を振り返ってみるがよい。くだらない動機でくだらない論理だ。(まあ、もう私の記事は飽きたので読んでないとは思うがね。)


 まあ、元長老や元奉仕のしもべというのは、一段高いところから聖書を人の開けさせてその言葉に基づいて人を教えた以上、一般常識と重なる聖書の言葉を用いて批判したに過ぎないのだが、どうもそこのところがわかっていない。何しろすでに早い時期にJWを辞めたみたいで演壇から話した経験がないだけにそういう論法による説得の仕方が理解できないようである。元長老や元奉仕のしもべには無責任な態度を持ってほしくないという思いはある。


 一方既に組織の過ちに気付いた2世の中で、一般常識を持っている人は意外と私に同意する人もいる。社会に出て立派に行動している人もいるだろう。それだけ客観的判断ができるということだ。その客観的判断というのは全否定思考では決してない。またいまだ組織にとどまっている1世のみならず、2世3世の人の中には、聖書の言葉を慕っている人も多いということで、それは郷土の偉人を慕う気持ちと変わらない部分もあるだろう。


 ここで改めて思うのは、WT組織があまりにも一般の過去の偉人の言葉をないがしろにしてきたということだ。世の教育を蔑んだがゆえに、クリスチャンでない人たちの言葉に子供たちを触れさせなかったし、たとえ触れたとしても「世の人の言葉は、サタンが光の使いに変容しているだけだ」という教えをして軽く見てきた。だからこういった教育が伏線となって、偉人の偉大な言葉を軽んじ、真の正しい道徳観や倫理観を認識させてこなかったがゆえに、それが返って子供たちに聖書の言葉の偉大さを認識させなかったのである。むしろ当たり前どころか体罰や規制を伴う窮屈な言葉として印象付けてしまったのである。この罪は非常に大きい。聖書が過去の偉人の偉大な言葉を既に何千年も前に凝縮していたんだという認識が持てないのである。


ただ本当に世に出て、様々な経験をすると、過去の偉人の言葉に触れることもあるだろうし、その言葉の価値を認識すると、聖書の言葉の価値を再評価するようになる人も必ず出てくるだろう。今は批判ばかりしていてもだ。一方JW時代にぬるま湯生活を送ってきて、集会に行かなくなっても元JWの交流にだけ喜びを見出しているだけでは、批判ばかりしているだけで楽なのだが、結局それは世について行けないぬるま湯生活をしているだけなので気づく可能性は低くなる。


しかしその交流でもやがて不完全な人間の姿を目の当たりにし、たぶんいやな思いをすることもあるかもしれない。何しろ自分を制御する動機付けから解放されたからだ。オフ会が小規模になっていく所以である。いまさらもう後戻りできないので、そのことは認めたくないし口には出せないかもしれないが、互いに気づかいをしていたJW時代に郷愁の思いを持つ人もいるだろう。ただ「食べたり、飲んだりしよう。人生の目的なんかいらない。明日は死ぬのだから。」と言って酒を飲むことにしか楽しみを見出さない人生をまるで素晴らしいものであるかのように謳歌ている人を見て違和感を感じることだろう。それこそが親世代がJWに惹かれた理由である。親世代はそこに虚しさを感じたのである。「楽園の希望」だけではない。それだけで今でもJWをしている人をマイコンさんと言って侮辱するのは、おそらく自分はそういう「偉大な言葉」の価値を知らないという虚しい人生を送ってきたからだろう。


そして聖書の偉大な言葉を認識できないまま、JWをしていたのであるならば、そういう倫理感覚しかないので、たぶんJWでなかったなら人生で失敗していた可能性は高い「JWでなかったらもっとましな人生を送れたのに」と言っても正しい倫理観のない人は、もっとひどい人生を送っていたかもしれないという思考が欠落している。JWだからイジメられたと言って嘆く人も入りだろうが、JWでなかったらもっと世間でいじめられ、そしてどこにも行き場のない人生を過ごしていたかもしれない。犯罪者になっていたかもしれない。ばくちで身を持ち崩していたかもしれない。性病に罹っていたかもしれない。人工妊娠中絶でそれこそ我が子を殺す「人殺し」になっていたかもしれない。(輸血拒否で亡くなる命と人工妊娠中絶で亡くなる命の数を知らない愚か者ではないはず。どちらも残念であるがJWでなかったとして自信をもってそういうことをしなかったと言えるだろうか。)

バランス感覚というのはそういう考え方ができる面でも有益だ。