「この組織以外にどこに行けばいいのか」という考えは、組織のマイコンが抜け切れていない。WT組織がだめだからどこか別に「組織」があるのではないかとを探し求め、中には聖書を使うキリスト教の門をたたく場合もあるだろうが、それは「組織」に依存する思考から抜けきれていないのである。しかしながらJWが散々キリスト教世界を偽りの宗教と言ってきたものだから、キリスト教世界もWTを異端扱いし、WTに対してはいい顔をしないのがほとんどではないだろうか。正直言って、カトリックやプロテスタントに転向した元JWで、JWの良いところを認めている牧師の話を聞いたことはない。たいていボロクソだ。でもそれは自分がJW時代にそれなりに納得していたことを放棄しているわけで、そもそも論としてどういうつもりでJWをしていたかがわからない。私に言わせればJW時代の経験も「道」を歩むうえで貴重な時間だったということを認めて初めてその人の言葉には耳を傾ける価値があると思っている。
JWの兵役拒否をあまり評価しない既存キリスト教徒は多いが、たとえばキリシタンへの迫害の中で浦上崩れというものがあることはすでに書いたが、この浦上崩れには「浦上五番崩れ」と称するものがある。それは1945年8月9日の長崎への原爆投下である。原爆の爆心地に浦上天主堂があったのである。長崎は当時日本最大のキリスト教都市であり、浦上天主堂は東アジア一のキリスト教教会であった。
爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊。投下当時、8月15日の聖母被昇天の祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていたが、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭・西田三郎、助任司祭・玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡。(Wikipedia)
天主堂に集っていたのは数十人と言われているが、この地区には当時15000人のカトリック信者がいたがそのうち10000人が犠牲になったという。同じキリスト教国であるアメリカが、多数のクリスチャンを一瞬にして抹殺したのである。
私は組織に交わっているころ、集会や大会に出席しながらそこでわけもわからずおとなしく席に座っている子供たちや、一生懸命賛美の歌を歌う婦女子を後ろから眺めているときに、「他の国でもこのように純粋は思いで崇拝しているJWたちがいるんだろうな。この上に爆弾を落とし、このような信仰の仲間を殺害する気には絶対なれない。」と思った。(もちろんその中には大勢の2世の子供たちがいた。私は2世の不幸を望まない。間違いは指摘するが不幸になってほしいと思わない。それは昔も今も同じだ。)そこに集う人たちが一体どんな思いでいるのかを知っていたからだ。国籍人種を問わず人の悩みには共通点がある。だから必死の思いで神を崇拝している。にもかかわらず一体どうしてその人たちを殺すことなどできようか。
このような決意をもって兵役拒否をするJWの崇高な精神を見ても「兵役拒否なんかJWだけじゃないよ~。そんなことを書く人のブログなんか見てほしくない。危険なブログだ。」などという人間がいかに人としての価値を本当は理解していないことがよくわかる。何やら賢げにキリスト様の説教を書いているが、所詮はにわか仕込みの聖書研究の付け焼刃的な理解にすぎない。評価されてしかるべきものを全否定ゆえに評価しないならば、その人は極度の偏見に基づいた差別主義者であると言ってよいだろう。真に危険なのはそういう人物である。
長崎原爆投下を支持したのはトルーマン大統領だったが彼がクリスチャンであったかどうかを示す明確な資料が見つからない。原爆投下を実行した米兵についてもなかなか見当たらない。しかし長崎原爆「ファットマン」を搭載したB29に、その作戦に神の加護を願った従軍司祭であるジョージ・ザベルカはカトリック神父である。「信徒発見」のニュースがカトリックで有名な話であるならば、この神父が長崎に多くのカトリック教徒がいたことを事前に知らないはずがない。しかし彼が長崎に原爆が落とされることを中止するように軍に願ってはいなく、むしろその栄光を祈った。彼は同じカトリック教徒を多数殺害することをよしとしたのである。
JWを非難する人たちの多くは大抵の場合わが身の愚かさを考えていない。それはカトリックでもプロテスタント(もちろんルーテルも含む)も同様である。非信者もそうである。無神論者もそうである。自分や自分たちや自分の属している組織の古今の黒歴史は無視している。2世の自称現役JWもどきもそうである。元JW2世でやたら組織の悪口を言うばかりかいつも頓珍漢なコメントしてくるダブルスタンダード保持者もそうである。とにかくWT全否定をする人たちのほとんどすべてはどこか一般的倫理感から見て人間としておかしいところがある。是々非々で物事が考えられない。私はそれを覚醒とは決して言わない。盲目のまま、ただ彷徨っているだけだ。「覚醒」祭りに参加しているだけである。
JW倒壊とかJW打倒とか言う人たちの心根も長崎に原爆を落とした人たちと変わらない。少なくともWT組織に心の平安を求め、そこに集う人たちがいるのに、「倒壊」という言葉を使うのは愛のないことである。ご自身を真の長老だとか言っていたが、本当に真のクリスチャンならそういう言葉は使わない。
今現在カトリックやプロテスタントで救いを得ることができると思っているならば、それが尊い宗教心と真摯な誠意ある願いのもとであるならば、それはとても心地よいことであると思っている。実際浦上で爆死したカトリック教徒も、中世暗黒時代にカトリックが犯した数多くの罪深い行為や、それこそキリシタン時代に女性を「銭」と同一視した伴天連たちのことも知っていたかもしれないが、その人たち自身が敬虔な思いでいたならば私はいいと思っている。あくまでも問題視したいのはその宗教に凝り固まっているがあまり排他的になることだ。カトリックやルーテルを信奉するのは良いにしても、それがWT全否定の為の道具として使っているならば、これほど不敬虔なことはないと言っている。
自分や自分の組織の黒歴史や欠点を踏まえたうえで、お互い愚かな人間同士として批判しろということである。その際には相手の美点を認めろということである。あまりにも多くの人間がオセロ思考で全否定に偏りすぎている。