「人は、人の外見を見るが神は心を見る」という聖句がある。私たちが心の中で思うことは神の前ではすべてお見通しだということだ。
とまあ、全能者だからそれもできるだろうと全く何の疑問を持たなかったが、今思うのは本当にそうだろうか、ということである。
数十億人の心の中まで本当に全能者は見えるのだろうか。私たち人間は自分で自分がわからないことすらある。他人に言われて初めて自分の心の状態を知ることができる場合だってある。心はそれほど得体のしれないものなのにどうして全能者はそれを知ることができるだろう。
一方で私たちは相手が何を考えているのは時に手に取るようにわかることがある。それは主として相手の言動や表情などから推察することができる。このようなブログでもそうだ。もっとも実際に会ってみたら全然違うこともあり、その時は修正しなければならない。先ほど「他人に言われて初めて心の状態を知ることができる。」と書いたがそれは外から見ているとはいいながらも自分のことをつぶさに観察した人が口に出す場合が多い。
精神科医の患者への質問はその人がどういうものかを診断するわけだが、すべて当たっていると言わないまでも過去のその人以外の膨大なデータから患者の心の状態を推察することができる。それでも医師はその患者の24時間を接しているわけではないし、患者の申告する過去の話は患者自身の勘違いなどを含め不正確ことも多いだろう。
しかしながら、一人の人間を生まれたときからご存じで、その人の環境や生い立ちなどを全能者がご存じで、しかも文章や口頭で常にどういう言葉を発信しているかを、ご存じであるならば、かなり精度の高い推察を全能者はできるのではないだろうか。
「心を見る」とは、実際に心の中にあるものを見通すというよりも、心の中を高精度に推察することだと思う。それはその人が心の中を表面に顕したときや、その人の置かれた状況を年数込みで見ているからだと思う。
心の中を本当にそっくりそのまま見通すということはどうも考えにくい。全能者と言ってもそこまでは見通せないと思う。だからこそ悪魔サタンは神を裏切った。神はそれに気づけなかったのである。サタンがそれまで「表面に出していたこと」は常に従順で、周到に神を崇拝することを「装っていた」にすぎない。サタンは「面従腹背を座右の銘」にしていた元祖である。
さてこう考えていくと、祈りをする人はできるだけ声に出したほうがいいのではないかということである。いみじくもキリストは山上の垂訓マタイ6:6で次のように言われた。
「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」
この助言は私室に入って祈ることと、神の報いが結び付けられている。なぜ周囲に人がいるところで祈ることをキリストは勧めなかったのか。この聖句が意味するところは、私室に入ると誰もいないので、声を出して祈ることができる。実際に口に出した言葉であるなら全能者はそれを知ることができ、それは全能者に対して自分という人間に関するデータを提供することになる。全能者へデータを提供することで私たちは何を考えているかを全能者が推察するにあたってその精度を高くすることになる。と考えるとキリストの言葉の重要性が理解できる。マタイ6:6は私室に入って祈ることと、神の報いとの間にもうワンクッション、つまり「声を出して祈ること」が抜けている気がする。常識すぎてあえて書く必要もなかったのかもしれない。
普段から食事に対する感謝を声を出して表しているなら、レストランで周囲の人がいるので黙って祈る時でも、その心の中の言葉までも神は読めないが「きっと普段の祈りの中で祈っていることだろう。心の中は読めないがその感謝の姿勢を評価する」ということになるのではないか。
祈りは私室にこもって、普段の思いを口に出して祈ることは実は大事なことだということになる。