「選民」が「神と人とのとりなしをする、心のドクターとしての役割を担う働きをするもの」という思いを持った場合、親はどのように添えを子育てに適用できるか、聖書的に整合性を持たせることができるかどうかを考えてみる。
JW親の多くは「子供をJWにしなければ子供をハルマゲドンから救えない。」と考えている。そのためには子供がバプテスマを受けていなければならないと思い教育をしてきた。しかしこれは聖書的に正しいのだろうか。確かにエフェソス6章にあるように「精神の規制を持って育てること」は述べている。しかしそれは「子供をいらだたせることなく」という前提条件を満たしていなければならない。
実際のドクターもその子息の多くは親の跡を継いでいる場合が少なくない。しかしその子が医師になるために親は学校の成績でひどい点を取ったときに数十発の鞭を加えるだろうか。子供を「出来損ない。」とか「失敗作」だというだろうか。中にはそういう親もいるかもしれないが、そのような教育が子供を鬱屈した状態の追いやることは理解できる。
親の仕事が本当に地域の人や、心や身体の病に悩む人を助けるのを目の当たりしたときに親に対する尊敬の念を込めあとをその尊い仕事を自分も行いたいと思うこともあるだろう。
しかし同じ医師でも、守銭奴のように金集めに執心し、またその立場で卑劣な犯罪を行うようなものであるならば、とてもじゃないけど親に敬意など持てないだろう。その仕事そのものに対する嫌悪感が働くかもしれない。
ただただ『楽園での永遠の命』だけに焦点を当てている姿は、希望のようでいて実は子供にとっては、親のその姿が「利己的なようなもの」に思え、何か純粋なものを感じないかもしれない。そうでない子供ももちろんそれ以上いるだろう。しかし敏感な子供は親もそうだが、会衆内の大人の二言目には『楽園』で片づける説得手法にうんざりすることもありうるだろう。
子供がドクターになることはできない。診察室に入って、小学生が白衣を着て「どうされましたか」と尋ねたら、入った瞬間に飛び出すだろう。
年端もいかぬ子どもが似合わぬスーツを着てネクタイを締める姿はそのようなものだ。しかしその子供にしてもそれを行わなければ家で鞭が待ってる場合もある。
いびつである。異様である。
たとえ子供がバプテスマを受けていなくても、それこそJWでなくても親が忠節な信仰を持っていればそれで子供は救われることもあるのではないだろうか。子供に『ドクター』のまねごとをさせる必要があるのだろうか。
一人息子を失った母親を哀れに思ってキリストはナインの都市で息子をよみがえらせたのではなかったか。ヤイロの嘆願を受け入れ、その娘を復活させたのではなかったか。
この息子も娘もキリストの音信を耳にし、それに信仰を持ったと推論させる根拠はない。
コリント第一7:14は私が組織にいるころから親に話をするときによく用いた聖句である。子供のバプテスマに対して私は否定的だったし、激しい体罰は必要ないと思っていたが故に用いていたものだ。子どもを救いたかったら親自身が敬虔な思いを持つことが必要だと言っていた。子供に鞭うつ前にそのことを考えることができるはずだと思っていた。それでも「長老の言うことのほうが正しい。」と思う親はその言葉を聞かなかった。
「なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか。」
改めてこの聖句の意味を考えれば、JWの子供への押しつけ信仰教育をはしなくてもよかったのだろう。親が「ドクター」であればよかったのだ。子供が「ドクター」になるかどうかを決めるのは子供だし、どういう決定をしたとしても親の信仰で救うことがありうるということだ。