あじさい寺で… | 世の中とかなんやかんやに対する感想

世の中とかなんやかんやに対する感想

できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

日本の各地に紫陽花(あじさい)で有名なお寺がある。JWと関連付けて記事を書くので、具体的な名前は伏せる。何しろその名園に思い入れがある人にとってみると、「一緒にしないでくれ」と言われそうだからだ。


見頃の時期の梅雨の合間に訪れると案の定満員の人出である。何分湿気の多い時期だし少し歩けば汗がにじむ。勿論、色とりどりに咲く紫陽花の美しさを堪能できるので、疲れというほどのものは感じない。


さてそんな中まだ幼稚園にもいかないような子供が大人の列の中で行き来している。紫陽花は子供目線で見ると、その満開の様子を鑑賞できる高さには設定していない。むせるような人いきれの中、石段を登ってまた下りたりするわけだし、身長が足らないせいで周囲の景色を見ることもできないし、また紫陽花の花そのものに対する鑑賞眼も養われていない子供が少なからずいる。同じ花でもチューリップあたりなら子供の身長よりも低いし、その色彩の美しさも子供なりに楽しめる。だいたい幼児の描く絵にはいつもチューリップが描かれることが多いのも、花と言えばチューリップのようなものをイメージしている子供に紫陽花のお花畑は、個人差はもちろんあるだろうがあるいは退屈なものかもしれない。


大人視点ではお花畑でも、子供視点では葉と茎の世界であり、大人以上に暑苦しく感じているのかもしれない。


親も様々だ。親の中には、子供を抱き上げて同じ視点でその美しさを味わわせようとしている人もいる。抱き上げられた子供はその時初めて微笑んでいる。しかし自分が楽しむことだけに思いが行っている親もいるし、子供が楽しんでいなくてうろつくのを叱る親もいる。「迷惑になるでしょ」という具合だ。


多種多様な色を持つ花はほかにもたくさんある。薔薇もそうだ。でも紫陽花の色の変化は土壌の性質によるものらしい。アルカリ性なのか賛成なのかで色が異なるようだ。まるでリトマス試験紙のようで面白い。でもすべて紫陽花なのである。


ふと思った。


まあ、WT組織をお花畑と揶揄している人もいるが、お花畑は別に悪くはないだろう。大多数の人は春に花見をしたり、植物園や公園の花を見るのが好きだろうし。お花畑を荒らす人こそふつうは咎められる。


といっても霊的パラダイスという表現がなんとも突っ込みどころを与える表現ではある。探偵ナイトスクープで桂小枝探偵の「パラダイスリポート」は笑いの種になるくらいだし、一般的に「パラダイス」なんていうのは能天気の象徴みたいなものだからだ。


そういう言葉遊びは抜きにして、結局同じ集会に行っていたとしても親子の見る景色は異なっていたのだろう。親から見てお花畑に映っても子にしてみれば暑苦しくてつまらないだけで、少しその気持ちを露わにすると、叱られる。「いつかあなたも大人になればその良さがわかる。」と言われていたが、大人になればなんと枯れた紫陽花ばかり見ざるを得なくなったとしたらショックは大きい。


紫陽花の色が土壌によって異なるように、会衆という土壌が異なると同じJWでも全く異なる色が出てくる。画一的だとか、一致とは言うが実態は全く異なる。鞭を奨励する会衆もあれば比較的緩い会衆もあり、そこで育った子供があるいは同じ元2世でもやはり異なるのかもしれない。


どちらがいいとか悪いとかではない。赤い紫陽花が青い紫陽花よりも、また黄緑の紫陽花よりもいいとか悪いとかではないのと同じである。大なり小なり複雑な感情があるとしても、それぞれの立場で生きていくしかない。


紫陽花を描くとすればたいていは雨の線を書き、葉の上にカタツムリが乗っている絵がポピュラーだ。6月の風景である。


カタツムリで思い出したが、そういえば昔、野外奉仕の時に家の表札の少し上にカタツムリがいた。そのカラの中央が丸い白色で周囲が淡いグレーだった。全然動かなかったしカラの中に閉じこもっており、パートナーの姉妹と話しながらで注意も散漫だったこともあり、呼び鈴かと思ってそのカラの中央を押した。姉妹は爆笑し、その場から姿を消し私一人だけで家の人が出てくるのを待った。幸い出てこなかった。


紫陽花園の途中にある東屋(あずまや)で腰を下ろし、綾鷹を飲みながら一息ついているときにそんなことを思っていた。。


霊的パラダイスの中の花は今ではずいぶん造花に置き換えられているのだろう。人工的な美しさでも満足する人もいるだろうな。