道理にかなっていることを愛する | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

ザビエルの日本人観察の言葉を少し考えたい。


「彼らは道理にかなったことを聞くのを喜びます。彼らのうちで行われている悪習や罪について、理由を挙げてそれが悪であることを示しますと、道理にかなったことをすべきであると考えます。 」


ザビエルは道理にかなっている」ことと「悪習や罪を認めること」とを関連付けている。それは聖書に基づく価値観の紹介と無縁のものではないはずだ。なぜならザビエルの目的はキリスト教の布教だったからである。


これは洋の東西を問わず、そして人種、国籍を問わず聖書の価値が不変のものである一つの証拠だ。勿論聖書の記述の中には神話めいたものがあったり、矛盾しているところも多い。それゆえ無神論者はそういうところに集中攻撃をかけ、信仰を覆そうとするだろう。しかしながら、だからといって聖書の持つ「道理にかなった」数多くの真理や助言はけっしてその価値を落とすものではない。そういうところに目もくれず「科学的知識」だけで聖書を否定するのはいささか盲目的であるかもしれない。それは崇拝の対象は「科学」であり、人間の崇拝本能が決して働いていないわけではない。


さて「道理にかなっていること」を聞くのが好きであるならば、「悪習や罪を認める」謙虚な心を持つはずである。ただしその悪習や罪を認めさせるためには「理由を挙げて」説得しなければならない。


私はその線に則っていろいろ書いている。私の記事を読んで「一瞬」でも納得したというのであれば、たぶん私の書くことが「道理にかなっている」からだろう。しかしすぐさまそれを否定したくなり「統治体崇拝」を続けるとするならば、もはやザビエルが布教したころの日本人よりも劣る。はっきり言って「いくら理由を挙げて」も納得しないのは「道理にかなっていること」を愛していないのである。



私を、けなしたり、ほめたり、反省したりすることで何かと忙しい御仁がいらっしゃるが、たとえHNとはいえ名前を呼び捨てすることからも見てもはや「道理にかなっている」とは到底思えないし、そういう態度はJWの悪評にしかならない。敬虔なJWはそういうことは決してしない。自分がけなしている「背教者」と同じ精神態度である。今度は同情心を買おうとしてもそれ以前の非礼な態度が消えるわけではない。経験した理不尽な扱いゆえに組織で知り合った多くのJWに感謝しているのであるならば、その感謝は道理をわきまえるものになることで表すことができるのではないか。



私は、組織崇拝の怖さを書いており、対象は現役JWである。組織を離れた人たちが今なお組織にいる家族や友人たちにどのように気付いてもらうかを、仮に組織にいる「親」に見せてもらいたいと思って書いている。また組織から離れてどうやって生きていくことができるのか、信仰心をどのように維持することができるか、そういった純粋に創造者そのものを崇拝したいと思っている人たちに焦点を当てている。そのためにもJWの良さも熟知しているので、それを今後も書く。組織を離れたJW全否定者はイラつくかもしれないが、そういう人はいまだ思考面でJW時代と何ら変わっていない。


日本の多くのJWが、ザビエルの観察のように「道理にかなっていること」を愛していると思っている。そこに焦点を当てていきたい。ジョルグ(JWORG)神が信者に強要する「悪習」や「罪」を、理由を挙げて悪であることを指摘していきたい。